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伊那出張編 高遠の満光寺で高遠藩主内藤家の墓参り 21.10.09_14:30


建福寺からもう少しスライドさせたところが満光寺
思春期の男子ならドキドキしそうな寺の名前だが、高遠藩藩主内藤家の菩提寺でもある。

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高遠藩的には、保科氏、鳥居氏(関ヶ原のときの伏見城の・・・)、の次に藩主になったのが内藤氏で富田林からの移動。絵島事件の絵島を預かったのも内藤氏の時代。高遠は内藤氏を城主に幕末を迎える。


満光寺は伊那の善光寺とも呼ばれているそうだが、それはちょっと言いすぎだろう・・・と旅行者としても思う。
でも、少し頭でっかちの感もある鐘楼門は見事。さすが大名の菩提寺だ。

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お寺の関係者と檀家と思しき人が境内の入り口で立ち話中。


境内を見たところなんの変哲もない寺院だけれど、高遠藩藩主内藤家の領内菩提寺だ。
藩は当時かなりの財政難が続いたらしいが、絵島生島事件が発し絵島の流罪先に指定されるなどついてもいなかったことも確か。

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それでも幕末には藩兵の西洋化が実現していたなど、近代化への目の付け所はあったらしい。

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そんな藩兵も長州征伐には参加したけれど戊辰戦争時には会津征伐に参加と思想的には優柔不断。小藩だから致し方なかったのかもしれないが・・・。


東京の新宿には内藤家の下屋敷があり、今も内藤新宿の名称に名を残しているから、3万石程度の小藩にしては感心だ。

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そんな内藤家の墓は境内墓地の奥にコンクリートブロック塀に囲まれてあった(笑)
正直、趣はない。

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墓石は立派なものなだけに残念極まりないが、保全ためには囲わないといけないだろうか。しかし、ブロック塀はいただけない。


堂宇も江戸時代に善光寺を模して建て替えられたときには伊那の善光寺と呼ばれていたほどの壮大なものだったらしいが、明治32年の火災で殆どの堂宇を焼失してしまった。
おかげで今の本堂は土蔵のような感じに。

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本尊は曽我兄弟の仇討の敵役工藤祐経の息子が流されてきたときに持ち込んだものだとか。
曽我兄弟の・・・工藤の息子の・・・こんなところで・・・は感慨深いが、残念ながら堂宇が閉まっていて本尊を見ることはできなかった。それも残念ポイントだ。






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