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「この街の、この時代。」としての写真。


「この街とヒミツを作る。」
90年代のいつだったか、青春18きっぷのキャッチコピーだ。

情報が洪水のように溢れている時代。あの街が気になる、行ってみたいとなれば、ちょっとスマホを操作したり、コンビニの本屋の旅行ガイドを開けば、それっぽい必要なものはこれでもかというくらい簡単に出てくる。
それを基に旅行計画を立て、実行すれば最も簡単にその街を体験し、味わうことができる。なんと幸せな時代なんだろう。

でも、観光地はあくまでも観光地であって、その地の人が本当に行く場所かというと、そうではないと思う。
そこで暮らす方々が本当に赴く場所、飲屋街だったり路地裏だったり、そういうものを旅先で欲するようになったのは、自分が写真を本当に撮るようになった、2013年くらいからだろうか。

社会人になり、休みの度に出かけるようになった。
実際にお店に入って、その土地のものを食べたり、そこの方々と話すようにもなった。

飲み屋街、路地裏は、似たり寄ったりなものが多い。
東京であれ、地方であれ、居酒屋、スナック、キャバレー等々が軒を連ね、数多の雑居ビルと共に街並みを作っている。整然としていたり、雑然としてたり、でも確かにそこに人の営みは感じられて、日々に疲れた人たちを、お酒が、お店での他愛もない話が癒してくれる。

よく知っている街。全く知らない街。形は違えど、それぞれの生活圏で、同じ光景が繰り広げられていることに、なんだか少し安心感を覚える。
写真を撮るようになってから、そんな風景をなんとなく、でもそれが楽しくて、体力の許す限り歩いては写真に収めるようになった。

次に来た時、この街は、路地は、このお店は、変わらずにあるだろうか。またその変わらない景色を見て、ものを食べて、人と話して、同じ体験はできるだろうか。保証はどこにもない。
きっと、余所者の自分の頭では考えられない、その街特有の問題はあるはず。
それに伴って、街の形も変わっていく。人はいなくならなくても、街の形が変わると、印象は良くも悪くも変わってしまう。
だからこその郷愁とでも言うのだろうか。一期一会だと思って、写真を撮って、その時の街の景色を残すようにしている。

見る人からすれば、変わり映えのしない、その街のいつも風景。
でもそれはきっと、10年、20年先と同じではない。その風景が写真の中だけのものになった時、きっと輝きを放つのだと思う。

カメラって、本当にすごい。シャッターボタンを押すだけで、そこに写っているもの、風景がずっと残り続けて、しかも今は何百枚も、何千枚も余裕で撮ることができる。今日は、明日は、どんな日常の、どんな景色に巡り合うのだろうか。

未来の自分のために、その写真を見る誰かのために、これからもずっと写真を撮り続けたい。

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