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障害のある子どもを育てるということ

私の娘には知的障害を伴う自閉症があります。
はじめに異常を感じたのは、7ヶ月か8ヶ月のころだったと思います。身体的な発達も情緒的な発達も非常に遅く、2歳近くまで歩くこともできずに保育園の中で一人だけずっとハイハイをしていました。

物事に対するこだわりが非常に強く、気に入ったことは異常なまでに繰り返しました。止めようとするとものすごい勢いで泣き、いつまでもいつまでも泣き止まず地獄のようでした。

絵本が大好きだった娘は、それこそ文字通り朝から晩まで本を読むよう私に要求し、私は毎日疲れ果てていました。お気に入りの本を見るだけで吐き気がするような思いがしていましたが、読み聞かせが辛い、と周りにこぼしても、「本が好きでいいじゃない、ちゃんと読んであげなさいよ」と言われ、何とも言えない孤独感を抱えていました。

ちなみに、1日にどれくらい読んでいるのだろうと思って数えてみると、当時お気に入りだった本は40回繰り返し読み、合計で150冊分を超える読み聞かせをしていました。
そのことを話すと、今度は「暇だねー」と言われ、ああ、この気持ちが伝わることはないんだなぁとしみじみと思ったものです・・・。

今はインターネットで何でも調べられる時代。
私もご多分に漏れず、子どもの様子が気になるとすぐ検索するようになりました。

話しかけても返事をしない、周りの子と遊ばないばかりかその存在にすら気づいていない娘。
何をどう調べても、表示されるのは発達障害や自閉症と言ったネガティブな情報ばかりでした。

しかし、発達障害といっても知的障害を伴うものとそうでないものがあることもわかりました。今考えると本当に情けない話なのですが、「うちの子は発達障害かもしれない。でも、きっと特殊な才能を持っていて、頭が良すぎるから個性が強い子なんだ」と思い込むようにしていたのです。

しかし、2歳を過ぎて発達検査をしたときに、そのすがるような思いは打ち砕かれます。

どんなにヒントを与えても、娘はテスト課題を全く理解できず、挙句の果てにテスト用具の鈴をどこかに隠してしまう始末。保健師さんと必死になって鈴を探すはめになり、最後までテストを受けることすらできませんでした。

診断結果は、知的障害を伴う自閉症。
しかも、決して軽い知的障害ではありませんでした。

ダウン症のお子さんをお持ちの方が書かれた、「オランダへようこそ」という詩があります。

障害のある子どもを育てることは、「イタリア旅行に行こうと思って楽しみにしていたのに、ついてみたらオランダだった」ようなものだ、という話です。

私には、いまだにこの詩が理解できません。

どちらかというと、私にとってこの障害告知は、「イタリア旅行に行こうと思っていたのに、ついてみたら地雷原でしかも片道切符だった」くらいのインパクトがありました。

地雷原に放り込まれて元の生活には一生戻れないけど、歯を食いしばって生き延びなければいけない、そういう気持ちでその日から生きてきた気がします。

もちろん、遅いながらも成長を実感することもあり、娘と心を通わせることもたくさんあります。娘を見ると心から愛おしいと思います。
また、幸いなことに地雷を踏まないように多くの方々が私たち親子を助け、見守っていてくださるおかげで今日まで無事に生きています。

しかし、日々娘の特性に振り回されて心身ともに疲弊し、身体は大きくなっても精神的な発達が追い付かず、悩みも深くなる永遠の子育て、というのが今の飾りのない実感です。

そして、子どもの自立が難しければ、親(特に母親)が好きな仕事をしたり、やりたいことをするのは、簡単なことではないとも感じます。

私は多くの方々に支えられ、なんとか大好きな仕事を続けているものの、全ての気力を総動員してようやく働けている、というのが実態です。ふと、疲れたなぁ~・・・と感じることもあります。

今日は「かまぼこがたべたい」と主張し、かれこれ3時間以上泣き叫んでいる娘。今も風呂場から泣き叫ぶ声が聞こえてきます(夫よお風呂に入れてくれてありがとう)。

障害は、不幸ではない。
でも、美しい言葉で覆い隠せるほど甘いものでもない。

この思いをかみしめながら、今日も明日も、果てしなく続く地雷原で精いっぱい胸を張って生きたいと願っています。





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