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AI世代の学校教育

ChatGPTをはじめ、パソコンやスマホがあれば誰でもAIにアクセスできる現代に、学校教育の意味を考えたいと思います。


学校教育の意味

結論、学校教育には意味があると私は考えています。

仮に、AIに対応した教育にカリキュラムを変えなかったとしても、まだ意味があると思います。私は商社時代には会社員として生き、今はエンジニアとしてまた違った環境にいますが、そのどちらの分野でも学校教育には意味があったと感じます。

最初におことわりしておきますが、学校教育(特に高校以降)で得るほとんどの知識自体は使うことはないでしょう。私はエンジニアをやっているので、数学、物理なんかには触れますが、歴史やその他の理系科目を仕事で使うことはありません。

もっと厳密に言えば、数学や物理も全てを暗記し続けているわけではなく、都度使いたい知識を調べ直したり、思い出したりしています。大昔に一度しっかり理解してしまっているので、本の目次だけ見て検討がつき、そのページを開けば使える程度になっています。これは獲得した知識を維持しているというより、私は目次力と実行力を兼ね備えているといえるかと思います。

論文を読み進める中では見たことも聞いたこともないような内容に出くわすことがあります。ここでは、目次力が使えないので、ググって参考文献を読んだり、ChatGPTに質問します。それでもわからなければ、専門の教授(もしくは執筆した教授)に質問して解決していくわけです。「ChatGPTに質問」以外はAI以前と同じで、人に聞くかAIに聞くかの違いです。

目次力が効かない未知の問題解決において必要な力は、自分は何がわからないのか言葉にし、どの様にして理解を埋められるかの方法論を想起し、それをどう他人(もしくはAI)に理解してもらう会話力です。便宜上これらをまとめて無知認知力と命名しておきます。

無知認知力は知識を得る経験をする過程で向上していきます。必然的に成長過程の我々を未知に遭遇させる、これが教育の一つの重要な役割です。AIが社会の根幹になる社会でも、実社会やAIそのものを発展させる人材育成のために必要不可欠となります。

学校教育はみんなのもの?

全員が学校教育を受けなければいけないか?

仮に生活のほとんどが自動化されたとしても、社会の一員として生きていくことを考えると、社会にはルールが存在し、その内容を理解するなど、網羅的で基礎的な力は必要になるので、今よりもスリム化された義務教育が残っていくのかなと思います。

余談になりますが、日本では誰もが同じ水準の教育を受ける権利がありますが、外の世界では教育は贅沢品と捉えられる国もあります。貧富の格差が明らかな米国にいると、何かを努力させてもらえるだけ贅沢に感じる様になりました。もし義務教育がスリム化され、本人の選択で追加の教育を受ける(もしくは選ばれた人のみが教育を受ける)、ことになった場合、その贅沢感を強く感じることになるかもしれませんね。


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