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[短編]霧、そして

 夕方激痛で寝室にいた私。カーテンは閉め切っている。リビングでは暖房を点け始めた。ゆらゆらと暖かい空気。想像するに小雨が窓に角度をつけピリッと打ち付けるが、実際は別の音だった。プラスティックに当たる何か。蜘蛛の巣に引っかかるより簡単に、密やかな隙間で遊ぶ動物の呟き。暗い冬が来ると思った。

 そこは、Aの景色。Aという名の付く場所ではなく、その数キロ先のスーパーマーケットがある木材工場と製鉄工業地帯。私は薄いベニアで仕切られた狭い部屋にいる。窓の外がその景色だ。第三の場所とも。現在地はカーテンが閉められ冷たい風の音で窓がガタガタ揺れる。

 工場の煙突から、灰色のむせ返るようなツンとした悪臭と濡れたアスファルト。変わらない印象として心に残る。近くのスーパーマーケットの駐車場の街灯には、灯りが点き足早に俯いて背中を丸くし、用事を済ます人々。人間の距離感覚は、そのまま目の前の赤いテールランプまでの距離に感じ、膨張し、寒さも現在の場所程ではなく、生暖かい。

 一枚のレコードを何度か流し、それは買ったばかりだからであり、音の並びが穏やかで繊細。考察へと。一度ではしっくりと思考の補助的な線にはならず、二度目は少し違った印象が残り、一度目とは若干の差異を残し、景色に相まって古さが現在の解釈に変化し景色に変わるが、それでも部屋は赤く灯って外を遮断している。印象に過ぎない赤色。それは、現在の部屋の暖かさがもたらしているのかも知れない。若しくは全く別の場所、何処かの止まない戦火かも知れない。それでも微睡をもたらす痛み止めと音楽は、別の場所に。時間を無視して、それでも懐かしい場所のように、頭は第二の土地からの記憶がもたらす第三の場所にいる。薄く目を開ければ、第一の場所にあり、カーテンは閉じられている。

 第二の場所はA周辺のところにいた濡れた犬を包むような少し温かい心情で、これが家庭的な何かなのだという錯覚と言わないまでも、暖かいものだった。若しくは私の思考がこぢんまりとした社会の圧力に屈し、暴力そのものの目つき、言葉。教育。それらにより、小さなものに過剰に愛情を注いでいたのかも知れない。その様な自らの救いのような想像上の暖かさかも知れない。そういったものを第二の場所では嗅ぎつけ、永久に反復していた。

 頭にある第三の場所は酒場の様な壁。メニューは貼られていない。ビールのポスターは無くとも、一人音楽を聴き、そう、、音楽が作った場所だといえ、情緒で心を満たし、第三の景色を作り出した現実の、第一の場所の頭の遠い記憶にある第二の周辺で耐えるだけの想像力が第二の心情に諦めでもない、それを与えた。そもそも諦めるとすれば、取り掛かる価値も無いという意味での事柄であり、それは貧しさ故の権力への憧れであり、気の重い輪であり、手に入れた先での教育目的の美の価値でしかなく、まさに徒党を組んだ愚劣極まりない偽善的な利他主義で利己を支えて、それにより紙幣を見せつけ、見せつけられ、ご自慢のプライドにより孤独をも感じ演出し、人間以下の同情心で連帯し。という一連のもの、その匂いには嘔吐を催す反自然的なものを直感的に感じ嫌悪していた。

 そして耐えるというのは、周辺に望みがないという意味だった。何もない。愛犬の濡れた匂いと、何かを焼く匂いとの。誰かが枯れ枝などを燃やす。薄暗い中、雲も低く細かい雨が生温い霧のように降る中、何も望みがない。つまり此処で何か別のものを学ばなければならない。耐えるということは、己が箱に頭を突っ込んでいるだけで、それが当然とされる何か律儀なものであったのかも知れないのだ。そしてその後は景色だけが残った。

 そう思った時、第一の場所で、バイクが爆音で表通りを過ぎる。何かは終わった。そう、第ニの場所だけで学ぶということは、教養の限界が青年期の中で既に知っている、その中で考えることは私のすることではなかった。終わったのだ。希望も絶望も終わったのだ。しかし、その景色はここに残り、反復される。重いピアノの音色。ゆっくりと。第二の頭から望む遠くの市街にしても、存在はしても顔は見えない。

 現在と過去、これしかない。未来は感じない。

 私は北方の街の第一の場所にいる。手を伸ばせばその手を掴む誰かがいる場所に居て、低い曇り空の下で耐えながら一人笑うことなどしなくていいのだと、裂いた音は場所を文字通り引き裂いて知らせてくれた。

 そして、何処迄も現在よりこの先という音楽そのものの指針が目指すものは、闇に落ちそうな霧を実態のないまま意志的なものの進行、第二の頭にあった場所から先の土地を指しているような旋律を組み、終わろうとしている。それは、第一の夜の寝室に於いて。目をゆっくりと開ける。

作家活動としての写真撮影や個展、展示の為のプリント費用等に充てさせて頂きます。サポート支援の程よろしくお願いいたします。