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コラージュ2

記憶の中には、それを見た時、思い出している時、目の前の続きである地上のものと知るか、この世界の可能性なのか、その時点で役目を知らされているのか。ダンテの「神曲」天国篇を読むと、三つ目の後者の神秘的なものへの記憶の認識へと意識は変化する。まだ、プルーストは未読なので無意志的記憶というものも正確に参考にしなければならないだろう。

アラン・ロブ=グリエの幻影都市のトポロジーは主人公が実際目にしているものなのか、空間が正確に定義されている中の小さな染みを見てイメージが多様に広がったものなのか。人物のエロティックな曲線の描写や、退廃した空間の静けさが他者の意識を遮断し、より深くイメージの中へ沈み込んで行くかのような小説で大変面白かった。最後にそれをカメラで切り取る人物も出てくる。

ボーッと景色を眺めている時、何も考えないことなど可能だろうか?そうだとしたら回復ともいえる前へ進む(イメージの中への時間)以後の時間が無視されている。それは空虚を空虚にさせない、自己内で行う試練、絶望の表出、固定、復活、反省である。そこへは記憶もやってくる。その後に楽園が日常に纏わり付き、非絶望(それは固定されているから)に至り、個人から連帯の意識へと移行していく。それでも空白を共有しなければならない。空白という文字かもしれないが。
そんな批判的な思考にここ数日至らざるを得なかった。
コラージュは筆者の新作。

作家活動としての写真撮影や個展、展示の為のプリント費用等に充てさせて頂きます。サポート支援の程よろしくお願いいたします。