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【アニメ】人生はどこまで「喜劇」か――『変人のサラダボウル』

人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ。

チャールズ・チャップリンの言葉

  『変人のサラダボウル』は語り口こそ軽妙だが、登場人物を取り巻く状況は決して穏やかではない。

 祖国を追われ、日本の岐阜県に転生した異世界の皇女サラ・ダ・オディンと、彼女の側近である女騎士リヴィア・ド・ウーディス。転生後、サラは私立探偵の鏑矢惣助と、リヴィアはホームレスの鈴木と生活を共にすることになる。争いに巻き込まれ、見知らぬ世界での生活を余儀なくされるという流れは、字面だけを追うととりわけシリアスな印象を受ける。

 本作では、そんな彼女らを筆頭に、不穏な印象やバックグラウンドを持ったキャラクターが次から次へと姿を現す。特筆すべきは、その全員が前向きかつ逆境を逆境と捉えない、良い意味で鈍感なマインドを持ち合わせていることだ。

 もちろん、その度合いにはグラデーションがあるものの、こうしたキャラクターが勢ぞろいしているところに、本作がコメディーとして成立している所以がある。

不穏な事情を持つキャラクターたち

 例えば、サラは日本に転生する前に父親を亡くしているのだが、すぐさま日本での生活に順応し、惣助の助手として探偵業のサポートに努める。過去を引きずることなく、むしろ、日本で暮らすことを肯定的に捉えている。祖国はもとより、離れ離れになったリヴィアを偲ぶ素振りはあまり見せていない。

 そんなサラと探偵の仕事を通して仲良くなった永縄友奈も、サラと同様に父親を亡くし、さらに学校で酷いいじめを受けていた。友奈は惣助の手を借りながらいじめを告発するのだが、結局クラスでの居場所をなくして転校を余儀なくされる。さらに転校先でもクラスメイトのいじめを目撃。過去の経験を生かし、いじめっ子を撃退することで、探偵業へのあこがれに目覚めていく。

 サラも友奈も、2人とも自らの境遇を悲観していないし、不幸だとも捉えていない。サラは岐阜での日常生活を通じて交友関係を広げ、友奈は果敢にもいじめっ子と闘うことで未来を切り開いた。「災い転じて福となす」とはまさにこのことで、トラブルを人生の糧としていったのである。

 一方のリヴィアも、ホームレス生活を強いられるばかりか、チンピラのタケオに騙されて違法な風俗店で働かされたり、転売行為の片棒を担がされたりと、転生して以降ろくな目に遭っていない。詳しくは後述するが、作品を通して最も多くのトラブルに巻き込まれているのはリヴィアだと言っても過言ではないだろう。

 しかし、リヴィアもサラや友奈と同様に、自分の置かれた状況を不幸だとは微塵も思っておらず、良い意味での無邪気さ、鈍感さで迫りくる危機をのらりくらりとかわしていく。

 リヴィアは、騎士としての気品と矜持を持った高貴な側面と、岐阜の生活を通じて堕落していく怠惰な側面が共存しており、このギャップが本作の面白さを引き立たせる隠し味として、絶妙に利いているのである。

 そんなリヴィアの周辺も穏やかではない。カルト教団の教祖である皆神望愛は言うまでもなく、違法なアルバイトを斡旋してくるタケオに、そのアルバイト先で知り合ったプリケツ(弓指明日美)。特に、プリケツはバンド活動に精を出しており、活動によって生じる支出を賄うために、違法なアルバイトでお金を稼いでいた。また、プリケツは家出中の身で、実家との関係が良くないこともリヴィアとの会話のなかで匂わせるなど、家庭事情の複雑さが垣間見える。

 また、リヴィアが日本で最初に出会った鈴木も、元々は作家として活動していたが誹謗中傷や対人関係でのトラブルに巻き込まれ、社会生活に絶望。岐阜でホームレス生活を送っていた。結局、鈴木はリヴィアの逞しさに触れるなかで執筆意欲を取り戻し、東京に戻って捲土重来を図るわけだが、鈴木というキャラクターからは、都会の競争生活に疲弊し、社会のレールから外れてしまった人間の悲哀が伝わってくる。

当事者は悲劇、俯瞰者は喜劇

 いじめ問題にカルト宗教、ギャンブル、競争社会、性接待に転売騒動……と、『変人のサラダボウル』という作品を概観したとき、社会問題として語られる要素がいたるところに散りばめられていることに気づく。これらは作品のモチーフとして単独で扱えるくらいセンシティブな話題だ。

 その一方で、本作はコメディータッチの作風が持ち味だ。前掲の社会問題などどこ吹く風のごとく、キャラクターたちが姦しく岐阜の街を動き回っている。そんな本作を注視するなかで、ある喜劇俳優の箴言が私の脳裏をよぎった。冒頭に引用したチャールズ・チャップリンの言葉である。

 この言葉の捉え方は多岐にわたると思うが、もっとも市民権を得ている解釈としては、「同じ出来事でも立場や見方次第で悲劇にも喜劇にもなりうる」というものだろう。当事者からすれば悲劇に見えていても、他者からすれば喜劇に見える――ということだ。

 チャップリンの喜劇作品の特徴もこの点にある。すなわち、悲劇や社会風刺の中に喜劇要素を織り交ぜることで、見る者に滑稽さが伝わるよう物語が構築されているのである。そしてそれは、物語の登場人物にとっての悲劇が救いへと昇華する効果を生み出しているのだ。

 そういった意味でも、冒頭のチャップリンの言葉は、本作の勘どころを、いみじくも突いているように感じる。すなわち、『変人のサラダボウル』という作品において、各キャラクターにとっては悲劇のような出来事も、視聴者である私たちからすれば喜劇と捉えられるように、ストーリーが演出されているのだ。

 とりわけリヴィアを中心に巻き起こる出来事は悲劇性と喜劇性が両立している。

 皇女サラを守るべく日本に転生するも、サラとは離れ離れになり、ホームレス生活を送る羽目になる。その後、違法風俗店で働かされるなど紆余曲折を経て、サラと再会。一度は惣助の探偵事務所で雇われるのだが、仕事ができないことを理由に解雇され、ホームレス生活に逆戻りしてしまう。

 その後は望愛と共同生活を送るなかで、パチンコやパチスロ、競馬といったギャンブルにのめりこんだり、またもやタケオにそそのかされて転売ビジネスに巻き込まれたりと、堕落した日々を過ごす。そんななか、プリケツや望愛とバンド「救世グラスホッパー」を結成。見事全国ツアーを成功させ、メジャーデビューを果たすのだが、最終回でまたしてもリヴィアに悲劇が起こる……。

 といったように、リヴィアの身に起こる出来事はどれも悲劇的だが、視聴者である私たちはそれを喜劇のように受け止めてしまう。それは前述したように、リヴィアが良い意味で鈍感で前向きなキャラクターとして描かれているからにほかならない。

 いかなる悲劇に直面しても決してヘビーな展開にならず、むしろその危機を軽やかにかわし、バッドエンドを回避する。鈍感力と前向きさに端を発するドタバタ劇に、私たち視聴者は思わず笑みをこぼしてしまうのだ。

 悲劇的な出来事をモチーフにしながらも、その中に喜劇的要素を織り交ぜることで、全体として滑稽な印象を与える。これによって、物語の当事者であるリヴィアとその周辺にある種の救いのような効果をもたらす。『変人のサラダボウル』の、とりわけリヴィアを軸としたストーリー展開は、チャップリンの喜劇作品と通底しているのだ。

  『変人のサラダボウル』の面白さは、「人生はクローズアップで見れば悲劇、ロングショットで見れば喜劇」というチャップリンの言葉に表れているように、一つの出来事を悲劇と喜劇、両面から読み取れるように描いていること。また、悲劇的な出来事、特にリヴィアの周辺で巻き起こる悲劇に喜劇要素を見出すことで、救いのある物語として昇華したところにある。

■作品概要
『変人のサラダボウル』
原作:平坂読(小学館「ガガガ文庫」刊) 
キャラクター原案:カントク
監督:佐藤まさふみ
シリーズ構成:平坂読、山下憲一
キャラクターデザイン:福地和浩
制作スタジオ:SynergySP、スタジオコメット
放送時期:2024年春


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