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エンゲージメントの罠~「『やりがいある仕事』という幻想」を読んだ

森博嗣さんの「『やりがいある仕事』という幻想」を読んで考えたことを、脳内関西人の林(仮名)と富田(仮名)の会話形式でお届けします。


 在宅勤務って、仕事に対する価値観を変えるよな。

富田 そうか?働く場所がちゃうだけで、やることは一緒ちゃうん?

 俺は「昇進したい」っていう気持ちがほぼゼロになった。まぁ、元々そんなに出世欲が強かった訳でもないねんけど。

富田 とはいえ、昇進せな給料は上がらへんのとちゃうん?

 俺の場合、昇進に求めてたのは、給料よりも「肩書」とか「個室、秘書、社有車」の三点セットみたいな、外見やったような気がする。在宅勤務になって、そんなんマジどうでもええわって思うようになった。

富田 三点セットって、島耕作が視野に入ってるやん。そんな奴が「出世欲がなくなった」っていうのはにわかには信じがたいけど、仮にそうやったとしても給料は高いに越したことないやろ?金はなんぼあっても困らへんで。

林 なんぼでも金欲しいって考えてる奴は、なんぼ金あっても満足でけへん、とも言えるぞ。最近読んだ「『やりがいある仕事』という幻想」っていう本にこんなこと書いててんけどな。

質素な生活ができる人は、ときどき適当に働いて、のんびり生きれば良い。贅沢な生活がしたい人は、ばりばり頑張って働いて、どんどん稼げば良い。いずれが偉いわけでもなく、片方が勝者で、もう一方が敗者というわけではない。
森博嗣「『やりがいある仕事』という幻想」朝日新書;P94

「質素な生活に耐える」やなくて「質素な生活ができる」っていう言い方、良くない?おれは贅沢するより、「質素な生活ができる人」になりたいなぁって思った。

富田 出世欲の固まりやった奴が、人間、変わるもんやな。

 変わったというか、在宅勤務で会社というコミュニティーから距離を置いたことで、自分のほんまの気持ちに向き合えたっていうことやと思う。会社におったら「生き生きと働く」とか「仕事を通じて自己実現」みたいな綺麗ごとが幅を利かせてるけど、この本はそういう価値観とは正反対やった。

人は働くために生まれてきたのではない。どちらかというと、働かない方が良い状態だ。働かない方が楽しいし、疲れないし、健康的だ。あらゆる面において働かない方が人間的だといえる。ただ一点だけ、お金が稼げないという問題があるだけである。
森博嗣「『やりがいある仕事』という幻想」朝日新書;P51より

富田 仕事は「必要悪」って割り切ってる感じやな。せやけど、俺は仕事それなりに楽しいで。

 それはそれで幸せやとは思うけど、それが嘘偽りの無いお前のほんまの気持ちか、よう考えた方がええで。

どうせやらなければならないことなら、気持ち良くやりたいと考えるのは人情である。だから、できるだけそれを好きになって、楽しくこなしたい。そういう気持ちを誰もが持つはずだから、「仕事が楽しい」ことがすなわち「良い状態」で、また端から見ると「羨ましい状況」として捉えられる。人に羨ましがられたい人ほど、「仕事が楽しい」と自慢するだろう。意識しているか無意識かはともかく、このような心理があることはまちがいない。
森博嗣「『やりがいある仕事』という幻想」朝日新書;P32より

富田 そんなん言われたら、ほんまに楽しいのか自信なくなるやん。

 もし自分のほんまの気持ちに蓋をしてるんやったら、いつか爆発してまうかもしらんで。

僕が指導した学生で、企業に勤めたものの一年とか二年で辞めてしまった、という人が何人かいるが、彼らに共通しているのは、事前に「仕事が辛くて大変です」とは言わなかったということ。逆に、そういう愚痴をこぼす人は辞めない。どちらかというと、最初のうちは仕事が楽しいとか、面白いという話をする人の方が、あるときあっさりと辞職してしまうのだ。(中略)おそらく、良い話をする人は、「そうなれば良い」と自分を言い聞かせている面がある。不満はあっても、良いところを見よう、楽しいことを考えようとしているのだ。それでもついに我慢ができなくなってしまうから、辞めることになる。
森博嗣「『やりがいある仕事』という幻想」朝日新書;P92より

富田 確かに、仕事が楽しいとはいえ、給料貰えへんかったら絶対やらへん訳やしな。最近、従業員エンゲージメントに力入れてる会社も多いけど、それも考えもんやな。

 エンゲージメントを向上させるって強調する程、おれは逆効果やと思うで。仕事の大部分が面倒くさいのは当たり前のことやのに「楽しく感じられない私はダメだ」みたいに考える人が出てくる。

ここ数十年の傾向として、子供たちには勉強の「楽しさ」を知ってもらいたい、社員には仕事の「楽しさ」を見つけてもらいたい、という考えが浸透している。(中略) 単に「やらなければならないこと」を、「楽しんでやれ」と条件をつけているだけである。「やりなさい」と言えば済むのに、楽しさがあるように飾って見せるのだ。(中略) 見せかけの「楽しさ」や「やりがい」を作ってしまうから、現場で実態に気づいた若い社員は、「こんなはずじゃなかった」と辞めていく。
森博嗣「『やりがいある仕事』という幻想」朝日新書;P55より

富田 やりがいっていうのも、考えてみたら難しいな。簡単な仕事はおもろないから、ある程度は難易度がないとあかんし。せやけど無理ゲーでは楽しまれへんし。

 その絶妙なバランスの仕事に出会えるのは、かなりレアなことやと思うで。せやし、やりがいのある仕事が見つかったとしても、一から十まで楽しいっていうことはありえへん。むしろ、面倒くさいことが大半やろ。せやから、無理に仕事にやりがいを求めるより、必要悪やって割り切る方が精神衛生上ええ場合もあると思うで。

生きていくには、「働くことが一番簡単な道」なのである。(中略)犯罪とかギャンブルとか、そういう難しいことをしないでも、もっと楽で簡単で誰でもできる「仕事」が、世の中には沢山用意されている。少し自分を抑えて、他人に従って、面倒なこと、疲れること、意味のわからないことを、「しかたがないな」と思ってやると、それなりに金がもらえる。そういう機会があることは、非常にありがたいことだと思う。
森博嗣「『やりがいある仕事』という幻想」朝日新書;P64より

富田 そうかもしらんけど、この本の作者の人、なんか全体的に冷たない?身も蓋もないというか。

 そういう反応は予想してはって、それはお前の心が冷たいかららしいで。

温かい言葉とか、温かい態度とか、そういうものがはっきりいって嫌いである。面倒くさいと思う。「ぬくもり」なんて言葉も胡散臭い。そもそも「温かさ」というのは、人にかけるものではなく、自分で感じるものだろう。たとえば、子供が無邪気に遊んでいたり、犬が走り回っている様子を見ると、心が温まる。しかし、子供も犬も、温かい態度を取っているわけではない。見ている者が、自分で自分の心を温めるのだ。したがって、僕が冷たいと感じる人は、自分の心が冷たいことに気づいただけである。
森博嗣「『やりがいある仕事』という幻想」朝日新書;P216より

富田 相手への気遣いとして優しい言葉を使うのは大事やと思うけどな。せやけど、回りくどくないからメッセージがよく伝わることは認める。

 まぁ、作者のメッセージをまとめると、仕事をそんなに神聖視せんでもええんちゃうか、っていうことやな。

人生の生きがいを仕事の中に見つける必要はどこにもない。もちろん、仕事に見つけることもできるかもしれない。それと同じように、仕事以外にも見つけられる。好きなことをどこかで見つければ良い。どうして仕事の中でそれを探そうとするのか、自問してみよう。
森博嗣「『やりがいある仕事』という幻想」朝日新書;P143より

富田 日本電産の永森さんが聞いたら怒るで。

 「太陽よりも熱い男」。。。昭和やな。ビジネスマンの端くれとして、昔はこういう人を目指さなアカンのかなと思い込んでたけど。。。自分の気持ちに正直になったら、ちゃうわ。

「やりがいを持て」とか「仕事にかけろ」と言ってきた年寄りたちの読みが甘くて、今の日本の不況、そして企業の低迷があるのではないか。つまり、やりがいとか、気持ちとか、そんな精神論で仕事を引っ張ろうとしたツケが、今まさに来ているともいえる。
森博嗣「『やりがいある仕事』という幻想」朝日新書;P54より

富田 モチベーションが上がれば生産性が上がると思い込んでたけど、必ずしもそうではないんかもな。

 モチベーション高くバリバリ働きたいっていう人もおるやろけど、全員に「やる気」とか「仕事のやりがい」を求めるのは、ちゃうと思う。淡々と給料分だけ働きたいっていう人もおるし、人それぞれやん。最近の会社って、だいたい「多様性を尊重する」っていう理念を掲げてるけど、社員全員のエンゲージメント向上を追いかけるのはそれとも矛盾するし、別に業績にもつながらへんのとちゃうかな。

<おしまい>


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