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こやりのうえでのところから

 あや取りが出来ない。
 ほうきしか作れない。

 普段はそんな事を忘れている。夫婦ふたり暮らし。私の仕事は事務員だ。あや取りをする機会なんて、普段の生活では、無くて当たり前。あや取りと言う単語すら、思い出す機会は無い。

 せっせっせのよいよいよい。

 アルプス一万尺は、地方によってやり方が違うと聞く。何かの拍子でアルプス一万尺を披露する機会になると、いい歳をした大人でも、自分のアルプス一万尺を実演する人は多いと思う。目をきらきらさせながら。

 そんな時は曖昧に笑ってやり過ごすのが常だ。やり過ごせない時は、仕方がないので、正直に話をする。

 私が出来るのは「せっせっせーのよいよいよい。あーるーぷーすーいちまんじゃっく」そこまでだ。「こーやーりーのーうーえで」以降は、何度か教えてもらったけれど、未だに覚えられない。

 辛うじて鶴は折れる。広告のチラシで箱を作る事も出来る。割り箸の袋で、箸置きも作れる。でも多分、四十代も半ばを過ぎても、私に折れるのはそのくらい。

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 幼い時から不器用だった。あや取りが出来ないのも、アルプス一万尺が出来ないのも、折り紙で折れるものが少ないのも、物心が付くか付かないかくらいの頃から、コンプレックスだった。

 子供の頃、友達と遊ぶ時、あや取りや手遊びが始まると、曖昧に笑って傍観するばかりだった。自分でやろうとすると、あまりの出来なさに、楽しむ事が出来ない。友達も次第に気がついて、それらの遊びには私を誘わなくなった。

 あや取りもアルプス一万尺も、出来ないまま大人になった。普段は特に不都合は無い。

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 多分、通っていた幼稚園が、あまり自分に合っていなかったのだと思う。

 親が、その幼稚園を選んだのは、園庭が広々としていたからだそうだ。ここなら子供が伸び伸びと遊べると思ったらしい。

 しかし、実際に通ってみたら、カリキュラムが、かなり細かく組まれている園だった。

 親は、しばらくその事に気が付かなかった様だ。その頃の私は虚弱体質で、しょっちゅう熱を出して、園を休んでばかりいたから、園のシステムを把握するのに時間がかかったのだと思う。

 その園は、お遊戯も、工作も、先生のお手本通りに出来た子から、外に遊びに行く事が出来るシステムだった。

 私はいつも、一番最後まで居残っていた。あや取りも、折り紙も、アルプス一万尺に代表されるような手遊びも。

 せっかく広々とした園庭だったけれど、あまり遊んだ記憶はない。いつも教室で、静かに落ちこぼれていた。

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 正直に言って、幼稚園の事は、そんなにはっきり覚えていない。

 印象深い記憶はふたつだけ。

 ひとつは、ある時先生に「今月は、はこべちゃんが、一度もお休みしませんでした。とても嬉しい事です。皆さん、拍手してあげて」と言われた事。

 すごくびっくりした。えっ? ひと月に何度もお休みするのって、そんなに珍しい事だったのかな? じゃあ、みんなは、ひと月に何度もお熱が出たりしないんだ! いいなあ!

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 もうひとつ、忘れられない記憶。

 折り紙を折っていた時の事だ。何を折っていたのかは、具体的には覚えてない。

 折り紙の時間はいつも、私がひとつ手順を終える時には、先生のお手本は三つも四つも先を行ってしまう。待って! と、心では思うけれど、声を上げられない。どうしていいのか、いつも途方に暮れていた。

 その時も、私は最後まで居残っていた。みんなはとっくに完成させて、園庭で遊んでいた。教室にいるのは私と先生のふたりだけになった。

 あまりに私が出来なくて、先生は、埒が明かないと思ったのだろう。

 突然、私の手から折り紙が取り上げられた。

 びっくりして、何も言えなかった。ぽかんとした私の目の前で、先生は自分で、ものすごい速さで折り紙を折り上げると、私の名前を書きこんだ。

「はい、出来ました。外で遊んでらっしゃい」

 口調は冷たかった。

 何も言えないまま、園庭に向かった。

 折り紙やあや取りや手遊びといったものへの苦手意識が、一層強くなったのは、その一件以降だと思う。

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 今にして思えば、不器用なのに加えて、引っ込み思案だった事も、落ちこぼれに拍車を掛けたのだろう。

 少し分からなくなった時に、先生、分かんない、教えて! と、言えれば、ここまで落ちこぼれる事は無かったかもしれない。

 だけどそれは、大人になった今だから分かる事だ。

 あの頃の私は、いつも、言葉がうまく出てこなかった。胸の内に言葉は渦巻いていたけど、うまく取り出すことが出来なかった。ただ静かに落ちこぼれていた。

 それにしても、私の人生のどこで、引っ込み思案という性質そのものが、引っ込んでしまったのだろう?

 今の私しか知らない人は、私が本当は引っ込み思案だと言っても、なかなか信じないかもしれない。

 今の私は、「あ、今、よろしいですか? この件、ちょっとお伺いしたいんですけど」とか、「んー、すみません、ここ、もう一回確認させて頂けます?」とか、「と、おっしゃいますと? 不勉強でごめんなさい」とか、ためらい無く言える。簡単に言える。

 あの頃も、そんな風に言えたら良かったのに。先生、分かんない、教えて! って。

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 子育ての機会に恵まれていない我々夫婦なので、姪や甥や友達の子供達には、めろめろになってしまう。

 四十代も半ばを過ぎれば、子供の成長がどれだけ早いのかは、実感している。毎日一緒に過ごす訳じゃない。たまにしか会えないって事は、その時のその子には、もう二度と会えないのだ。

 毎日会えたとしても、本当はそうなのだろうし、大人同士だって、もちろんその時のその人には、もう二度と会えないのだけど、たまに会える子供達ほど、その事を実感させてくれる存在は居ない。

 だって、次に会う時は、見るからに別の人なんだもの。次に会う時は、もう、遊んでくれないかもしれないんだもの。

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「はこべさん、子供とたくさん遊んでくれてありがとう」

 と、友人から感謝をされる事がある。

「いやいや、遊んでもらったのは、私の方だから。こちらこそありがとう」

 と、いつも私は言う。友人は笑う。どうやら友人は、私が友人に気を使わせないように、そう言っているのだと、思っている節がある。

 でも、私は本気だ。本気で遊んでもらってありがたいと思っている。

 だって、四十代も半ばになって、本気でごっこ遊びをしようとしたら、付き合ってくれるのは子供達だけだ。

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 しかし子供達は、ごっこ遊びや、絵本の読み聞かせや、塗り絵や、鶴を延々と折る折り紙だけでは、満足してくれない時がある。

 あや取りをしよう、とか、アルプス一万尺をしよう、とか、そんな事を言ってきたりするのだ。

 ああ、子供の時に、もっと真剣に覚えれば良かった! 教える事を先生に投げ出されても、もっと食い付いていけば良かった! 自分が終わったところのずっと先にお手本が進んでも「先生、ここまでしか出来てないの、ここの次を教えて!」って声を掛ければ良かった! 大人になった今なら出来るのに!

 なんて思うけれど、今から幼稚園の頃に戻る訳にもいかない。

 仕方がないので、正直に話をする。

「あのね、はこべさんは、あや取りが出来ないの。アルプス一万尺も、こーやーりーのーうーえで、のところから、分からないの。やり方を教えてくれる?」

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 正直にお願いして、断られた事は無い。子供達はいつも、熱心に教えてくれる。ただ、私の出来なさには、やはり手を焼かれてしまうけれど。

「ここをね、こうするの」
「こう?」
「ちーがーうー! こう!」
「あ、こう?」
「そうそう。そしてね、こう」
「こう? あれ? なんか変」
「はこべさん、違うよー!」

 ただ、私だって、幼稚園の頃よりは、多少はスキルが上がってる。伊達に四十数年生きてきた訳じゃない。

 ……なんて、あや取りや手遊びに対して、大袈裟だろうか。

 でも、真剣だ。だって教えてくれる子供は、いつだって真剣だから。幼稚園の先生だって、こんなに真剣には教えてくれないって事を、私は良く知っている。

「あ! こうだ!」
「そうそう!」
「こうか!」
「はこべさんが出来たー!」
「出来た! ありがとう!」

 子供だった頃、あや取りも手遊びも、ちっとも楽しむ事が出来なかった。なのに今、子供達に教わりながら遊ぶのは、こんなに楽しい。

 大人になったら、こんな楽しい時間を持てるようになるよ、と、途方に暮れて園庭に向かった、ちいさな私に教えてあげたい。

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 私は本気だ。子供達に遊んでもらってありがたいと、本気で思っている。

 だけど、ごめんね。

 三十代の時からそうだったけど、四十代の脳細胞はもっと、一度出来たくらいでは、あや取りも、手遊びも、ちゃんとは覚えられないの。

 だから、教えてもらって、出来るようになっても、次に会える時には、また出来なくなってるの。

 ごめんね、せっかく教えてくれたのに。

 でも、大抵の場合、あや取りを教えてくれた子と次に会う時には、その子はあや取りから興味を失っている。アルプス一万尺も同様。

 子供の成長は、本当に早い。その時のその子には、もう二度と会えない。

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 二度と会えないあなた達、遊んでくれてありがとう。あや取りやアルプス一万尺を教えてくれてありがとう。

 次に会える時の、違うあなた達とは、また、遊んでもらえるのかな。もう、遊んでもらえないのかな。

 また、遊んでもらえるなら、今度は何をして遊ぼうか。


お目に掛かれて嬉しいです。またご縁がありますように。