![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/9394460/rectangle_large_type_2_d1ca7e548666adbb54f84d1815de59d3.png?width=800)
街灯りと珈琲とチョコレート
「電車止まってます! 設備の故障だそうです。私は歩いて帰ります。清水さんもお気をつけて!」
帰り支度をして、スマートフォンを取り出したら、先に帰った筈の同僚から、メールが届いていた。 検索してみたら、私の通勤路線は、しばらくは動かないらしい。
さて、どうするか。
---★---
一応、駅に行ってみた。が、入口の手前で沢山の人が立ち尽くしていたり、声高に電話をしているのを見たら、中にはあまり入りたくなかった。
歩いて帰れなくはない。同じくらいの距離だったら、以前にも歩いた事がある。
でも、途中で休憩しないと持たなくて、結局四時間くらい掛かった(もっと掛かったかもしれない。あるいは、そんなには掛からなかったかもしれない。正確な時間は覚えていないけれど)。
車で出ている夫に連絡を取ると、一時間半くらいで合流出来ると言う。
合流する前に電車が動き始める可能性もあったけれど、無理はしない方がいい。待ち合わせをして拾って貰うことにした。
---★---
混んでいる事を覚悟していたけれど、お気に入りのカフェには、私の他には誰も客が居なかった。
「電車が止まってるんです」
普段、ここの店主さんに話し掛ける事は無い。静けさが似合うお店だ。店主さんも口数が多い方ではない。私もいつも大抵ひとりで来て、ぼんやりする事を楽しんでいる。
「え、そうなんですか?」
「しばらく動かないみたいです」
「大変ですね」
「家族に迎えに来て貰います」
「ああ、それなら良かったです」
それだけの短い会話だったのに、何だかほっとした。自分では気がつかなかったけれど、少し心細くなっていたのかもしれない。
---★---
甘いものが食べたかった。季節限定で、オレンジピールのチョコレートがあった。紅茶とハーブティが美味しいお店だけど、ピールチョコレートに合わせて、珈琲にした。
窓の側の席に座って、ぼんやりと外を眺めながら、珈琲とチョコレートを口にした。贅沢しているな、と、実感する味だった。
昼間だったら、景色がきれいな席だ。隣のビルとの間に、街路樹が一本、すっくりと立っている。名前は知らない。でもいつ見てもきれい。新緑も、濃い緑も、葉が落ちる様も、葉の落ちた後の枝模様も。
今の時間は、街路樹は影だけで、あまりよく見えない。隣のビルも距離が近すぎるから、灯りがきれいという訳でもない。
だけど、ビルに灯りがついている。
音楽を聴きながら、美味しい珈琲とチョコレートで、贅沢な時間を過ごしている。すべての席に小さな花瓶で花を飾っている、明るいお店の中で。
---★---
電車が止まった駅で、沢山の人が佇んで、困っている様子、どこかに連絡を取ろうと躍起になっている様子は、やはりあの日を思い出させた。
大きな地震のあった日。
あの日は家路に向けて四時間くらい歩いた。もっと掛かったかもしれない。あるいは、そんなには掛からなかったかもしれない。正確な時間は覚えていない。でもとにかく、家に帰りつけば安心だと思っていた。
地震の直後は、電話は通じなかったけれど、メールだけは通じた。家族の安否は確認できた。だけど、大きく揺れてから一時間くらい経った頃だろうか、メールも通じなくなった。
---★---
何も分かっていなかった。
自宅に帰りついたら、地震であちこちが壊れているのを目にする事になる。色々あって、大好きだったその家を、結局は引っ越す事になる。
だけど、その時の私は、何も分かっていなかった。運動不足だなあ、しんどいなあ、なんて、呑気に思っていた。
暗くなるにつれて、街灯りが全く無いというのが、こんなにも心細いものだと初めて知った。
頭上には、凄い、としか言い様の無い星空が広がっていたらしい。地震のあった日の話になると、誰もが星空の話をする。
でも私は、どうしてメールが急に繋がらなくなったのだろう? と訝しんで、何度もメールチェックと通話を試みながら、携帯電話の画面ばかりをずっと見ていた。
星空の真下を歩いていたのに、一度も空を見上げる事は無かった。
メールが通じなくなった時、海沿いで、いったい何が起こっていたのか。
何も分かっていなかった。何も。
---★---
珈琲とチョコレートが美味しい、このお店を知ったのは、あの地震から随分と経ってからだった。
ビルの谷間、分かりにくいところに、ひっそりとある。言葉を交わさなくても、入っただけで、店主さんの人柄が伝わってくるお店だ。
席数は多くない。二人掛けのテーブルがふたつ。四人掛けのテーブルがふたつ。すべてのテーブルに、いつも季節の花が小さく飾られている。
値段設定は、そんなに安い訳ではない。でも、メニューにある飲み物は、みんなちゃんと美味しくて、値段以上の味がする。そんなにしょっちゅうは行けないけれど、折々に訪れたくなるお店。
いつも客で溢れているという訳ではない。だけど、私のようなファンが沢山いるのだろう。地震のあった日よりももっと前から、この場所に在り続けているようだ。
---★---
一年くらい前だっただろうか。お店を訪れたら貼り紙があった。しばらく休業するというお知らせだった。どうやら店主さんが少し体調を崩されたらしい。
常連客という訳ではない。だけどしょんぼりとした。
もしかしたら、お店を閉じるつもりなのかも。大好きだったのに、ある日突然休業して、そのまま閉店してしまったお店を、今まで幾つも知っている。
半年後、 お店に灯りが点いているのを見た時は、とても嬉しかった。
私にしては、少し贅沢なお店だ。だからしょっちゅうは来られない。だけど折々に訪れたい。
このお店が在るというだけで嬉しいから。在り続ける保証はどこにも無いから。
お店だけじゃない。
日常、すべて。
---★---
一時間半後に来られると言っていた夫は、二時間後にやって来た。電車が止まった影響で、やはり道路は渋滞していたらしい。
家に向かう道路はとても混んでいた。あの日のように、歩行者の群れが車を追い越していく。
だけど、街灯りが輝いている。
---★---
電車の復旧を知ったのは、日付が変わる直前だった。
復旧の為に働いていた人達の事を思った。あの地震の後、ライフラインの復旧の為に、この町を訪れてくれた、沢山の人達の事を思い出しながら。
日常が失われるのは、いつも一瞬。
取り戻せない日常を思って泣く日は、大なり小なり、誰にでもあるに違いない。
だからこそ、日常を取り戻すために、日常を失わないために、奮闘する人達が居るのだろう。
私も、私に出来る事をしたい。それが、例えば、大好きなお店を折々に訪れる、そんな小さな事ばかりだとしても。
---★---
いつか失うかもしれない愛しい日常の事。失われた日常への愛惜。日常を取り戻すために奮闘する人への感謝。
どうにか留めておきたい。
文章にしようとも。
文章に出来なくても。
どうにか私の胸の中に。
お目に掛かれて嬉しいです。またご縁がありますように。