信じられないままでいてくれてありがとう
「はこ、これあげる。最近、はこが明るくなって、嬉しいの」
学級委員の夢ちゃんから手渡されたのは、フェルトで出来た、手作りの三日月だった。私は驚いて、ちゃんとお礼を言えなかった気がする。
当時、クラスではフェルトのマスコット作りが流行っていた。皆、何かしら作っては、友達と交換していた。私は作りもせず、もちろん交換もせず、クラスの子達がマスコットを片手にはしゃいでいるのを、ただ眺めていた。
それまで、夢ちゃんと、特別に親しくしていた訳では無かった。
夢ちゃんだけではない。クラスの誰とも、私は親しく出来なかった。小学校六年生での転校は、最初のボタンを掛け違えてしまうと、そのままクラスに馴染めずに、学校生活を終える事になる。
それでも、三学期も終わり頃になると、嫌われ者の自分、というものに、多少折り合いをつけられるようにはなる。どこかで開き直って少し楽になったのが、伝わったのだろうか。
フェルトの三日月をもらった後も、それまで以上に、夢ちゃんと親しくなる事は無かった。少なくとも、学校生活が続いている内は。
三日月を貰ってすぐに、小学校を卒業し、中学校ではクラスが分かれた。高校は、お互い違う学校に進学した。
大人になってから、ふたりで一緒にお茶を飲むようになるなんて、思ってもいなかった。
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同じ学校に通っていた頃、夢ちゃんは、誰とでも仲良くなれる人で、クラスの全員と友達だった。
いや、この言い方は正確ではないかもしれない。「クラス全員のお姉さんだった」という方が、近いかもしれない。
背が高く、大人っぽくて、同い年なのに、お姉さんの雰囲気があった。
勉強の成績は学年トップクラスで、運動も出来て、素直で真面目。微笑みながら、誰に対してもフラットに声をかけて、面倒見がよく、人当たりが柔らかい。そして、決して人の悪口を言わない。先生方からの信頼も厚かった。
新学期を迎え、学級委員を決める段になると、当然のように、夢ちゃんの名前を、皆が挙げる。
そんな夢ちゃんが、本音では、学級委員などやりたくなかったのだと知ったのは、中学校を卒業して、随分経ってからの話だ。
進学校に進んだ夢ちゃんは、高校生活では妹扱いされる事が多く、お姉さんの仮面を外す事が出来て、本来の自分を取り戻したらしい。そんな事を聞いたのも、割と最近の話だ。
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「こんなに遅くなるなら、一言連絡を入れなさい!」
帰宅するなり、母が血相を変えて玄関に飛んできた。
二十代後半の、ある春の夜の事だ。
当時、私はまだ携帯電話を持っていなかった。その頃は仕事が一番忙しい時期で、残業をして、遅くに会社を出て、それから恋人に会いに行ったりした訳だから、帰宅したのは、日付が変わる手前だったかもしれない。
「夢ちゃんから電話があったのよ。あなたが帰ってきたら、何時になっても構わないから、必ず電話が欲しいって。すぐに電話しなさい。急いで!」
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「あのね、Aのお母さんから電話があったの。Aが亡くなったって」
夢ちゃんは、いつもの口調だった。少し甘く、柔らかく優しい声。
「それって、本当の話なの?」
遠くでぼんやりと聞こえる私の声も、いつもの口調だった。
「うん、本当の話。私もまだ、信じられないんだけどね」
夢ちゃんも、自分の声を遠くでぼんやりと聞いているのかもしれない。
亡くなった? 彼女が?
ついこの間、会ったばかりなのに? いつもみたいに、茶色の瞳をくるくるさせて、楽しそうに笑っていたのに?
「それでね、はこ。私ね、お通夜にも告別式にも、参列出来ないみたい」
「そうなの?」
「周りから、こういう時は、参列しちゃいけないって言われて」
夢ちゃんのお腹には、赤ちゃんが居た。
「ああ、そうか……」
当時私は、葬儀への参列の経験は、あまり無かった。同い年の夢ちゃんも、同様だったらしい。
恐らくは、亡くなった本人も、そうだったのだろうと思うけれど。
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夢ちゃんと、亡くなった彼女は、中学校の頃からとても仲が良かった。
私が、ふたりと距離が近づいたのは、中学校を卒業して、ふたりと学校が分かれてからだ。
亡くなった彼女は、演劇を観るのが趣味だった。高校で演劇部に所属した私は、演劇を通じて彼女と再会し、少しずつ友人づきあいが始まった。
夢ちゃんと距離が近づいたきっかけは、思い出せない。どこかでばったり再会したのだったろうか。お互いに、遊佐未森、種ともこ、大江千里といったアーティストが好きなのだと知って驚き、そこから距離が縮まって行った事は確かなのだけど。
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社会人になってから、三人で時々ご飯を食べるようになったのは、どういう訳だったのだろう。
多分、夢ちゃんが私と彼女を誘ってくれたのだと思う。
夢ちゃんは、何故か、私が転校生だった頃から、私を「はこ」と呼んでいた。私だけではなく、誰に対しても、気さくに声をかけていたから、夢ちゃんから「はこ」と呼ばれるのは、違和感が無かった。考えてみれば、不思議な話だ。他の同級生は、私を「清水さん」と呼んでいたのに。
亡くなった彼女も、最初は私を「清水さん」と呼んでいた。でも、三人で食事をするようになる頃には、私を「はこ」と呼ぶようになっていた。
三人で過ごす時間は、楽しかった。
彼女は、色白で線の細い見た目とは裏腹に、いつもエネルギッシュで、茶色の瞳をくるくるさせて、沢山しゃべって、よく笑っていた。笑う時には口元に手を当てるのが癖で、それが可愛らしかった。
夢ちゃんはいつも、柔らかく笑いながら、彼女と私の話を聞いて、的確に相槌を打ち、話の続きを引き出していた。ひと通り人の話を聞いてから、優しい声で、自分の思う事を言う。
何を話していたのかは、良く思い出せない。他愛のない事ばかりだったと思う。
覚えているのは、私がどこかで、ふたりに対して自分を閉じていた事。
仲良くしてもらえるのが、とても嬉しくて、嬉しすぎて、怖かった。誘いを受ければ喜んで向かう癖に、自分からふたりを誘う事が一度も無かった。
何を怖がっていたのだろう。怖がる事など無かったのに。
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「どうぞ、上がって」
「お邪魔します」
夢ちゃんの家にお邪魔するのは初めてだった。赤ちゃんを間近に見る経験も、私はあまり無かった。
「お父さん似かな?」
「そうなの」
赤ちゃんを見ながら、不思議な気持ちになった。
まだ若かった私には、同い年の友達がお母さんになる、という事自体が、なんだか不思議に感じられた。ほんの少し前までは、どこにも居なかった人が、ここに居て、あくびをしたり、泣いたりしているのも不思議だった。
そして、ほんの少し前までは、確かに居た人が、この場に居ない事も不思議だった。
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お葬式に出るまで、本当の事とは思えなかった。
だけど、促されて、顔を見た。
顔を見たら、一気に、本当の事になった。
本当の事になんて、したくなかった。
もっと仲良くなりたかった。もう、叶わない。
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赤ちゃんの側で、夢ちゃんとお茶を飲みながら、最初は、他愛の無い話をした。ふたりとも、彼女の話を、意図的に避けていた。
だけど、次第に、言葉が途切れた。
「もっと、ちゃんと話を聞けばよかったと思う。あの子、悩んでいても、顔に出さないし、愚痴めいた事も、冗談にごまかすから、結局、何があったのか、よく分からなくて」
夢ちゃんは、静かに、ぽつりと言った。
「私、突然の事だとしか聞いてないけど、つまり……」
「そうなの」
夢ちゃんは、また、ぽつりと言った。そして、黙った。私も、それ以上は聞かなかった。
「でもね、お通夜にも、お葬式にも行かなかったせいかな。実感が無いの。全然信じられない。電話すれば、また普通に話が出来る気がして」
しばらくの沈黙の後、また夢ちゃんは、ぽつりと言った。甘い優しい声で、いつものように、柔らかく微笑みながら。
「そっか」
夢ちゃんが、信じられないままでいてくれるのが、私は嬉しかった。電話すれば、また話が出来るかもしれない、私もそう思いたかったから。
勝手な言い分だと思う。それでも。
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帰りは、夢ちゃんがバス停まで私を送ってくれる事になった。赤ちゃんをベビーカーに乗せて、買い物に行くついでだと言う。
「はこ、こっち側に来てもらっていい?」
夢ちゃんは、ベビーカーを守るように、さっと車道側に立ち、私に歩道側を歩くように促した。一連の動作がとても自然だった。お母さんになって、まだ数ヶ月しか経っていないのに、完全にお母さんなんだな、と、しみじみ思った。
バス停までの道を、ゆっくり歩いた。
この間まで確かに居て、この場に居ない人の事を想いながら、この間まで居なかったのに、今、確かにここに居る人と一緒に、ゆっくりと。
陽射しは強く、空は高かった。
あの日の青空を、今も忘れられない。
「彼女」については、以前、別のnoteに書いています。よろしければ、そちらもあわせて読んで頂けると、とても嬉しいです。
お目に掛かれて嬉しいです。またご縁がありますように。