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呼び名の無かった友達

 彼女の事は、名字に「さん」付けでしか、呼んだ事がない。

 だいぶ親しくなってからは、呼び名を見つけられず、呼ばなかった。

 その事を、彼女は気がついていただろうか。

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 中学生の頃の私は、学校に居るのが辛く、あまり人に心を開けなかった。早く時間が過ぎる事ばかりを願って、自分の内側の世界に集中するのが精一杯だった。

 だから、中学校の同級生で、大人になってからも付き合いがある人は、ほんの数人。ほぼ全員、中学生の頃よりも、卒業してから付き合いが深まった。

 彼女もその内のひとりだった。

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 高校生になって、演劇に夢中になり、あちこちの劇団の芝居を観に行くようになった。高校生の時は、さすがに東京の劇団の芝居を観に行く様な金銭的余裕は無かったけれど、地元にも素敵なお芝居を見せてくれる劇団は幾つもあった。

 そんなお気に入りの劇団のひとつを観に行くと、ほぼ毎回の様に顔を合わせたのが、彼女だった。

 顔を合わせる内に、自然に会話をするようになり、次第に仲良くなっていった。

 私が参加している芝居も、彼女は毎回観に来てくれるようになった。最初はひとりで。その内に彼氏と。その彼氏と結婚してからはご夫妻で。

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 彼女の事は、中学生の頃からよく知っていた。同じクラスになった事は一度も無かったけれど、部活が同じだったから。

 ただ、部活の時に話をした事はほとんど無い。

 通っていた中学校には、文化部というものが皆無で、しかし学校の方針で、部活動は強制的に何かに所属しなくてはならなかった。それで仕方なく運動部に籍だけ置いていた、半分幽霊部員の私と、部活の中心メンバーのひとりで、主力選手だった彼女には、接点が無かった。

 でも、当時から、彼女の事を、感じがいい人だなと思っていた。

 いつもにこにこしている。人懐こくて明るくて、とてもオープンで自由な空気を纏っている。人には分け隔てなく接するタイプで、嫌々部活に顔を出す私にも、ちゃんと挨拶してくれる。

 見た目も華やかな美少女だった。全体的に色素が薄くて、白い肌に、茶色っぽい少し天然ウェーブの掛かった長い髪をしていた。黙っていると、もしかしたら線の細い印象なのかもしれない。だけど常にエネルギッシュで、茶色い瞳がくるくるとよく動いていた。

 当時の私は、自分の事を、超絶な不細工で、心底根が暗くて、救いようのないほど笑顔が気持ち悪いと、思い込んでいた。

 実際のところは、そうではなかったのだろうと、大人になった今は思う。でも、周囲にそう言われ続けると、自分でもそうなのだと思い込むものだ。

 だから彼女の事は、まぶしく見てはいたものの、仲良くなる日が来るなんて、思いもしなかった。

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 彼女には、時々言われた。

「あれ、はこって、同じ部活だったんだっけ? ごめん、全然覚えてない」

 そう、彼女は、私を「はこ」と呼んだ。

 中学生時代は、彼女には、名字に「さん」付けで呼ばれていた筈だ。でも、中学校を卒業して、再会して、少しずつ仲良くなってから、いつの間にか。

 私をあだ名で呼ぶ人は少ない。中学校までは名字で、高校からは下の名前で呼ばれる事がほとんどだ。

 彼女が私を、はこ、と呼ぶ時の、優しい声を、今も良く覚えている。

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 だけど、何故か私から距離を縮める事が、うまく出来なかった。

 自分が参加する芝居の案内以外で、こちらから彼女に連絡を取る事は、ほとんど無かった。

 結婚式に呼んでもらった時も、他の中学生時代の同級生と顔を合わせるのが怖くて、理由をつけて欠席してしまった。

 そして、あだ名を呼べなかった。

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 彼女には、名前をもじった豪快なあだ名がある。見た目が繊細な美人なだけに、そこにはギャップがあるけれど、それがなんとも可愛らしく、彼女らしい。

 中学生時代の彼女の友達は、みんな彼女をそのあだ名で呼ぶ。親しみをこめて。彼女もそのあだ名を気に入って、大切にしているようだった。

 彼女が私をあだ名で呼ぶようになって、本当は嬉しかった。だけど、こちらから、彼女をあだ名で呼ぶ事が出来なかった。私がそのあだ名で呼んでいいのだろうかと、ためらいがあった。

 私とそんなに親しくなっていいの? そんなに親しいと思って貰えているの? 本当に?

 でも、それまでの様に、彼女を名字に「さん」付けで呼ぶことも出来なくなった。

 呼び名が無くても、友達付き合いには、ある程度は困らない。相手にもっと踏み込んで、もっと親しくなろうとしないのであれば。

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 そんなに頻繁に連絡を取るわけでもないのに、彼女と良く話をしたのは、電車で顔を合わせる事が多かったからだろう。通勤に使っている路線が同じで、時間帯も近かったので、本当にしょっちゅう彼女を見かけた。

「あ! はこー!」

 その日も駅の改札近くで、彼女は私に手を振りながら、小走りで近づいて来た。

「はこ、あのね、今度、私も芝居に出ることになったんだ! これ、チラシ。観に来てー!」

「わあ! そうなんだ! 絶対に観に行くね!」

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 だけど、体調を崩して観に行けなかった。

 本当は、どんなに具合が悪くても、絶対に観に行くべきだった。でもそれは、その時には分かるはずもなかった。

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「あ! はこー!」

「ごめん! この間は風邪をひいちゃって、観に行けなかったんだ。本当にごめんね」

「いいのいいの! また今度やるから、次は必ず観に来てねー!」

「うん! 次は絶対に観に行く。ご案内ちょうだいね」

「うん! じゃあね!」

「じゃあね!」

 駅の階段の踊り場で交わしたその短い会話が、最後になるなんて。

 次が無い事を、彼女はその時、既に決めていたのだろうか。

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 何があったのかは知らない。

 いつもにこにこしていた。人懐こくて明るくて、常にエネルギッシュで、茶色い瞳がくるくるとよく動いていて……、でも、彼女が内側に何を抱えていたのか、まるで知らない。

 もし、知っていたら、何か私に出来ただろうか。いや、何も出来なかったに違いない。

 だって私は自分で勝手に壁を作って、彼女を遠ざけていた。

 あだ名で呼んでくれた彼女を、あだ名では呼ばなかった。招いてくれたのに、結婚式にも行かなかった。いつも私の芝居を観に来てくれたのに、彼女の最初で最後の舞台を観に行く事も無かった。

 次は必ず観に来てね。
 うん、次は絶対に観に行く。

 何があったのかは知らない。

 私に残されたのは、果たせない約束だけ。

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 彼女のお葬式の事は、あまり語りたくない。

 中学校の同級生がたくさん来ていた。その中の何人かからは、不躾な質問を幾つもされた。

 私がその場に参列している事を、場違いに思ったのだろう。その場に居たのは、彼女をあだ名で呼んでいた人達だ。そして、中学生時代の私が、彼女を名字に「さん」付けでしか呼んだ事が無いのを知っている。

 ご焼香をして、顔を見た。綺麗な顔をしていた。

 精進落としの席に着く事を断って、早々に退席しようとしたら、彼女の旦那さんが私を追いかけてきた。

「また、お芝居に出る時は、必ずご連絡ください。絶対に『彼女』を連れて、『彼女』と二人で、必ず観に行きます」

 赤い目で言われたその言葉にうなずいたのは、二十七歳の時。

 二十六歳を最後に、結局、舞台を立つのを辞めてしまった私は、果たせない約束をふたつ、今でも抱えている。

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 時々、彼女によく似た人を見かける。

 そうじゃない。白い肌に、茶色っぽい少し天然ウェーブの掛かった長い髪を、駅で見かけると、多分、私は彼女だと思ってしまうのだろう、反射的に。

 そして、反射的に声をかけたくなる。だけど声をかけられない。

 人違いだから、ではない。呼び名を持っていないから。

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 Aちゃん。

 ごめん、私、やっぱり、Aちゃんの事を、A、とは呼べないなあ。

 でも、Aちゃん、と呼びかける事も無かったね。

 ごめんね、A、って呼べなくて。結婚式にもお芝居にも、行きたかったのに行かなくて。

 今更だけど、はこ、って呼んでくれてありがとう。

 Aちゃんって、呼んでもいい?

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 もちろん答えは無い。

 ただ、記憶の中の彼女はいつも、私に手を振りながら、小走りで近づいて来る。にこにこしながら。私のあだ名を呼びながら。

 はこ、と呼ぶ時の、優しい声が、今も聞こえる気がする。


この話には、続きがあります。もうひとりの友達の事。よろしければ、そちらもあわせて読んで頂けると嬉しいです。


お目に掛かれて嬉しいです。またご縁がありますように。