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【雑記】2022/06/13

最近は人があまりにも怖いので、家に閉じこもる日々が続いている。
図書館で席を対面することや、歩きながら不意に通行人と目が合うことさえ、私には憚られる。特に、文字もあまり読めなくなった。本を読むときも、単語と単語の相互連絡が、頭の中で誤配されてしまう。その連絡網が誤っていることだけは分かるから、ただ視線が言辞の上を這いずるだけで終わる。
私は不能である。自らの肉をさえ自然に動かすことのできぬあらゆるものの局外者である。
私にとって生きていることは甚大なる苦痛と捉えられる。他人を意識することは、それだけで気分が悪い。他人のまなざしからは、私の実存は抜け落ちている。私は死んだ魚の目でさえ厭悪する。彼らの目に見はられた瞬間、私は硬直し、様々なものがそのまなざしの前では捨象される。そして私は、私の気づかぬ埒外で、いつの間にか他人の思考と癒着している自己を発見する。私とは別の主体に客体化された自己はいつだって奇妙なものだ。彼に発見される自己のように、私は演じなくてはならないという苦痛。
私の実存はどこにあるのだ。
そんなものはありはしない。
私は鏡の前ですら実存を放棄している。実存とは、その存在のあまりにも無さに、やっとその存在を逆説的に見出されるほかない。いうなれば、私と鏡像との間の無限の速度、どちらがどちらを見つけたのかさえわからぬような無限の速度が、自らをその無限性によって自己超出するところにしか、実存はあり得ない。即ち、私とその鏡像の間に〈鏡〉を見出すこと。この〈鏡〉が実存に他ならない。他人が私を発見するところの、私が他人を模倣するところの、その場としての〈鏡〉にしか、私の実存は宿らない。それは、他人の権能が、鏡像の側にも、私の側にも影響を及ぼしているがために、退却してしまった実存の有様である。鏡像の前では、私は他人(鏡像)を模すことしかかなわない。なぜなら、鏡像の作用とは、自己像の客体となるそれが逆照射を行い、ついには私の主体をさえ規定するということに他ならないためである。敢えて言うならば、鏡像とは「言葉」なのだ。私は鏡像ではなしに、私から動き出したと信じているが、果たしてそれは本当か。自己が自己であることを確認するためには、鏡像という装置に頼るほかない。そこにおいて露わされた客体は、自己を逆に規定する。私は鏡の前では、その無限の反射の無限の速度のために、どちらが先に動き出したのかさえ分からなくなってしまうのだ。そしてついには、私は鏡像のために、私ということを宙づりにされる。それは鏡像についても同様だが、主体性があるのは私の側にしか(私は認められ)ないから、鏡像はただ私に対して”目くばせ”をするだけの客体としての暴力機械になる。ここでの暴力とは、私の権能が及ぶところがない、という意味だ。その目くばせに気が付かない、ということは、恐らく可能だろう。しかしながら、そのことは私が私でなくなるということをも意味する。なぜならば、私というものを規定しているのは、再三言う通り鏡像に他ならないからだ。そのため、私はただ、実存の夢をその〈鏡〉に見出す他にない。暴力機械を超克する装置、それはさながら「諸行無常」といって坊主が悟りを啓くように、私は〈鏡〉によって他者を克服することを願う。

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