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〈鏡〉のメタファーについて(現実の対掌性)

本記事は、最近、私がいたく固執して記事として書き連ねていた現実の論理について、一つの明快なメタファーを付与し、そこから何らかの概念を抽出する試みである。


まずはこちらをご覧いただきたい。

これは、私が以前から言及し続けていた三種類の現実を図解にしたものである(現実の詳細はこちらの記事から→『現象・現実様態・剥き出しの現実』)。
まずは〈私〉についてから。〈私〉とは、以前の記事では「現象」と表現していた場において生起するものである。〈私〉とは、客体が私とは無関係にある中で、なぜだかその私だけが、世界をすべて包括している、という状態のことである。たとえば「りんごがそこにある」というとき、その物体と物理的位置づけを肯っているのは、ほかならぬ私である。そして、そのことについて、他の人間が「そうだね、そこにりんごがあるね」と首肯するときであっても、これは必ずしも他者との共通理解を意味しない。こうした事柄についても、はっきりと言えるのは、その共通理解があるかどうかではなく、「私が」他者との共通理解を獲得した「と考えている」ということである。この例を更に押し進めると、他人が「私は私だけしか存在しない」というときと私が「私は私だけしか存在しない」というときでは、前者は偽だが、後者には〈私〉の独在性(ただ〈私〉だけがあること)への指差し(指示)が生起しているといえる。
このような前提の下〈私〉を考えるならば、〈私〉とは世界にとって無寄与なもの(影響を与えないもの)であるといえる。なぜならば、もしも世界に(通常の意味での)神があったとして、その神が(還元可能な)他人の独在性と(ほかならぬ)私の独在性を区別することは不可能だからである。神によって区別されない〈私〉とは、世界の寄与成分であるとは言い難い。そして、このために、世界(現象)に〈私〉が立ち現れるとき、世界は〈私〉によって擾乱されることとなる。どういうことか?
〈私〉が世界と接続し、開闢され(図における「炸裂」)、世界を包括しているということは、世界の主体が宇宙や「私」ではなく、〈私〉へと移行することを意味する。しかしこのとき、あらゆる概念を以てしても、〈私〉の質感を語ることはできない。このことは、神による〈私〉の鑑定が不可能であることと類型である。端的に存在するにもかかわらず、徹底的に存在しないものとした扱われる〈私〉にとって、世界とは擾乱そのものである。よって、〈私〉の性質とは、擾乱、即ち無限否定であるということによってしか、示されることがないのだ。無限とは、端的に無限であることを指す。1,2,3…と数えるような数的無限ではなく、已然として(既にして)無限大に否定しつくされていること、このことを無限否定と示す。

さて、そのような無限否定においても、語りつくせない現実がある。それは、そうした無限否定という擾乱にさえ〈私〉は徹底的に”勝利”しているという事実である。勝利とは、相手を既にして上書きする、ということに外ならない。そのことは、科学的見地における天動説から地動説への遷移、そして地動説による天動説の上書きとしてたとえることができる。さて、この次元において、もはや〈私〉という言辞は、もはや言葉としても存在することができなくなる。なぜならば、「私」は勿論のこと、〈私〉において含まれている”私”という事柄も、擾乱の最中で記述されるものであり、それは記述の外を指示こそすれ、そのものではないためである。よって、この勝利した現実は、もはや〈私〉などではなく〈〉として、即ち「すっからかんの現実性」としてのみ表明されざるを得ない。これが「現実様態」である。しかし、現実様態は、あくまでもメタフィジカルな視点によってのみとらえられざるを得ない。なぜならば、そのようなことを言語として表白してしまった時点で、〈私〉の次元の現象の擾乱で語られざるを得ないためである。あくまでも、そのことは示されており、他のものの地平上にはないとしか示し得ないものである。

しかし、このことにおいても示し得ない現実がある。それは、そもそも現実とは、勝利という様態すら隠滅しているものだという事実である。そして、このことこそが「(剥き出し)の現実」である。現実は、現実様態よりも更に”小さく”示されざるを得ない。なぜならば、現実様態とはまさにその様態によって〈私〉や〈私〉に付随する擾乱との落差として示されていたが(このことが図において「相対的な原点」と示されている事由である)、現実とは端的な構造であり、そのことを示す言葉ももはやないためである。そのうえで、どのようにして小さく示すことができるかといえば、それはもはやアデュナトン(名状不能)の形式に則るほかはない。それは現実とも言えないほど現実なのであり、勝利しているとも言えないほどに勝利しているのである。このときのこれらの表現の力点は「現実と言えない」「勝利していると言えない」というところにあり「現実である」「勝利している」という表現は、あくまでももしも現実が現実様態の延長線上にあるならば、というカッコつきの表現に過ぎない。

これらが、現状まとめられる三種類の現実性である。さて、そのうえで、これらの現実性の関係性を図式化したものがこちらである。

左図が、現実を出発点にした現実性、右図は〈私〉を出発点にした現実性である。今までの指示では、端的な勝利であるのは左図の方であることは明白である。しかし、そうした指示も、あくまでも言語である、と語るのならば、それは右図、すなわち現象の、コミュニケーション(コミュニカシオン)の場に収斂し、右図は左図に端的に勝利するだろう。それらは、互いの不可視性により、互いに違う形で、しかしそれが”見えない”ために同じゲームの盤上であるかのように、互いが互いを圧倒することとなる。このことを更にメタファーを取り入れ図としたものがこちらである。

これら二つの図は、互いが互いを圧倒する形で、間に挟まれた〈鏡〉によって無限反射をしていることとなる。このことは、〈私〉において出てきた無限否定のそれとは類が違う。無限否定において、それはあくまでも〈私〉から端を発する無限性であった。しかし、ここにおいて、この無限性はもはやどちらの図から端を発したのかが分からない。しかも、これらは拮抗ではなく、相克ではあるものの、それは互いが互いを超出し、超克することにより保たれている均衡であることは瞠目に値するだろう。

さて、これらの図において、改めて日常的な感覚に戻って、私的であるもの、すなわち主体的であるものとは何だろう、と問うならば、それは実存であると私は答える。実存とは、すなわち自由である、ということである。実存は、〈私〉、現実様態、現実を取りまとめ、そのどれらにも包摂されるにもかかわらず、重なることなく、それらの内包でも、外延でもあり得ない。実存とは、「ある」でもなく、「ない」でもなく、「ないではないでは」でもなく、端的にその存在が不可能であることによって、その自由性を表す。この実存とは、先ほどの鏡の例で例えるならば、まさにその鏡における箇所が実存である。二つの三位一体の現実性は、互いが互いを反射しあい、それらは相即にあるが、だからこそ、その間にある鏡の存在に気が付くことができない。私は実存に気が付くことはできないし、実存も実存に気が付くことができない。実存は、自らを規定するまなざしをも持たないのである。実存は、自らの性質からも、内包からも、いわんや本質からも自由であり、その自由さによって、現実と現象の相互の超出の隙間に入り込む。この隙間とは、0の隙間である。開き得ない隙間においてのみ、実存は入り込む。実存が可能でも不可能でもないこと、そのような意味で端的に不可能であること、そのようにして、実存はその姿を顕現させるのである。

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