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現象・現実様態・剥き出しの現実

本noteは、あらゆる事態への懐疑を徹底しながら、≪今ここにある不分明のもの≫に光を当てようとする試みである。

私たちは一体、どのような世界を生き延びているのだろうか。
世界の様相については、物理的世界観、日常生活に即した価値観など、様々にあるだろうが、実のところ、世界の構造というのは截然と明らかになっている。それは、世界の様相とは、結局何であってもいいということだ。
ある日突然、私たちの生活は宇宙人に乗っ取られるかもしれない。いや、もっと実生活的に考えるなら、世界中に核爆弾によりまっさらになるのかもしれない。これらは未来方向への世界の様相が変容する可能性であるが、逆もあり得る。私たちの記憶は不確かで、実在の過去とはてんで内容を異にする場合がある。これを飛躍させるなら、私たちは電極につながれた水槽の脳であるにもかかわらず、いつの間にかそのことを忘れてしまったのかもしれない。これは、過去方向への世界の様相が変容する可能性である。
これら単純な可能性に加え、もうひとつ、現在地点における世界の様相の擾乱が挙げられる。現在地点とは、過去にも未来にも頼らずに、自らの様相をかき乱している。この乱れを説明する概念として、私は「輪転」を設置する。輪転とは、現在地点における世界の無寄与成分が世界の様相をかき乱すということである。たとえば、世界に「かりちぷ」という概念があったとする。この概念は意味を持たない、世界(意味のある世界)には無寄与の成分であるとする。そのために「かりちぷ」は世界に遍在することが可能で、しかも何も起こらない(意味のある本質にかかわらない)。にもかかわらず「かりちぷ」は「かりちぷ」としてしか存在せざるを得ない。「かりちぷは無意味である」という表明は、既に有意味だからである。ここにおいての「かりちぷ」の存在様態は、言表によって汲み取れないという点で、潜在的な様態を呈する。この「かりちぷ」だけは、もしも世界の意味的本質が開示されたとしても、「かりちぷ」として世界にとどまり続けるだろう。
もっと具体的な例を出そう。それは無寄与成分として〈私〉を考えることである。この世界において、究極的には「自分の世界には自分しかない」ということは周知の事実である(これは独我論とは区別される)。だが、そうした万人に共通の状態の中で、「これ」だけがなぜか自分の世界である、ということは驚くべき事実だが、この表明は、万人の共通の状態として収れんせざるを得ない。よって、こうした究極的な〈私〉の感覚についても、やはり世界の無寄与成分なのである。この〈私〉とは、世界全体に遍在しているものの、そのものは日常生活にあらわれず、ただ潜在せざるを得ないのである。

このように、世界の様相とは常に攪乱の最中にある。本noteにおいて、これらの諸可能性・擾乱を一絡げに「現象」と呼称する。この現象の本質は「無限否定」である。無限否定とは、単なる否定ではない。単なる否定はある肯定文を前提にしなければならないが、無限否定にその端緒はない。あくまでも私たちは、無限否定を力動としてではなく、相(相貌)としてしか可視化できない。なぜならば、現象のエッセンスとは、顕在しているものの後退、そして潜在しているものの保留にあるからであり、そこに肯定的要素はあくまでも副次的なものとしてしか立ち現れないからである。そこには、自らがその力動に参加するというような熱烈な肯定は表白し得ず、むしろ無限否定は相としてこちらを見つめてくる(反攻の余地がない)のだ。

現象には、あらゆる事態が収れんする。このことから逸脱を試みる場合にも、それによって起こされた言表は現象であり、それによって示したいことはあくまでもメタフィジカルであることに留意する必要がある。そして、以下はその試みである。

現象から逸脱するためには「かりちぷ」や〈私〉という形で示されたもの、即ち潜在の復権が重要である。そして、この潜在を立ち上がらせるためには、現実作用を持ち出す必要がある。それは「現に」と言い換えてもよい。現実作用とは、換言すれば「実際は」という形で現れる現象へのアンチテーゼである。現実作用は、すべてを今この瞬間、というところから開けだすすべてという質感である。実際は、「かりちぷ」にも意味はないし〈私〉さえ蟄伏しているが、現にはどうだろうか。現に、という方向を以て(これはあくまでも実際的なものの引力に引きずられた方向性である)見ることができたならば「かりちぷ」は「かりちぷ」としてその潜在性からすくいだされ、〈私〉もまたその姿を現すのである。ここで重要なのは「かりちぷ」も〈私〉も、同じ〈名前〉でしかないということだ。この両者はあくまでも現象に収斂している。しかし、現象によって表された概念は噛砕されても、示そうとした〈名前〉には接続し得るのである。こうした現実作用による現実を、現実様態と呼称する。

現実様態は、あくまでもその〈名前〉が共有されることは可能である。しかし、それに相手が賛成するか、反対するかにかかわらず、そのことが本当に伝わったのかは定かではない。伝わったのは概念であり、そのことは現象に過ぎないのだ。また、現実様態においては、現象において潜在であったものと顕在されていたものとが反転するという事態が起きている。「実際に~」という表現には、「現に『実際に~』」というようにして、現実作用は既にして実際性を隠滅する。さらに余談が許されるならば、このことは逆になりもする。つまり「実際に『現に~』」と表現することも可能だ、ということだ。この相克的な関係について記したnoteが本記事以前にあるので、良ければ参照していただきたい。

しかし、こうした現実様態でさえ、汲み取れない現実がある。それは、中心性のない、方向の定まらない、ただ発散するばかりの現実である。今までは、あくまでも顕在するもの、即ち弁別されたものの流転のあり方であった。しかし、この現実作用自体はどうか。現実作用はまるでダイナミックな現象を抑えつける働きをしているかのように見られたが、ならばこの現実作用の遡及はできないであろうか。これは(既に)できる。このようにして、あらゆる概念や〈名前〉すらからも逸脱した現実のことを、剥き出しの〈現実〉と呼称する。剥き出しの〈現実〉は単純で端的な構造をのみ有する。それは全全性である。全全性とは、すべてがすべてであるということである。しかし、この表現は不適切である。〈現実〉において、すべてはすべてと重なり得ない。〈現実〉とは、群体ではなく、また唯一でもなく、端的にすべてである。ならば、すべてとは何か?すべてとは「あらゆる概念も〈名前〉も立ち行かない単なる絶対的な原点」である。この段階の〈現実〉において、諸事態の徹底的な懐疑は初めて完遂される。〈現実〉には、無いということもない。空白すらもない。ここには相も、現実作用も、あらゆる実質がないのである。

このようにして、現象から遡及し、現実様態、そして〈現実〉へと到達すると、あることがわかる。それは、これらの諸事態は三位一体であるということである。これら3つの形態は、単に〈名前〉でしかあり得ず、同じものを同じものだと表現しているに過ぎない。また、もしもここにメタフィジカルな視点がなければ、現実様態も〈現実〉も、ただ現象に収斂するだけの仮構に過ぎないだろう。しかし、その視点に依りすぎても、今度は超越論的な仮構にすがってしまうだろう。この論考はただすべてがすべてである、ということのみを意味し、その意味も既に消去されている。


ある寓話。
あるものが時計を指さして言った。
「時計の針を見てごらん。あれはまるであるように見えるね。だけれども、その実体は「時計が何度回ったか」という回転によって浮かび上がった幻影なんだ」。
純白の衣を纏った何かは微笑んだ。

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