#やさしさを感じた言葉 とにかく病んでいた20歳頃。海外の大学へ進学使用していたが自分の希望の学部に入ることが出来ず、日本にとどまってこれからどうするかと思いながらバイトに明け暮れていた。 1人だけ取り残されたような、誰も味方がいない気持ちで忙しい時間が終わるといつも空虚な気持ちだった。 ある日、当時三宮にあった足湯につかりながら、ジュンク堂で買った本を読んでいた。どんな本を読んでいたか忘れたけれど、読んでいるうちにだんだんと何かに悲しくなり、自分に絶望して涙が止まらなくな
食後は、必ずお茶をいれてテレビを見ていた。小中学生のときは、じいちゃんが買ってきた御座候(わたしは粒あんが嫌いなのだけれど)や家にあったお菓子をたべながらお茶を飲み、高校生の時は、お茶菓子になるようなものを自分で買って帰ることもあった。祖父が謡曲の先生だったこともあり、生徒さんからよくお土産をもらっていた。羊羹はそのひとつだった。とらやの竹の皮につつまれた羊羹をだして、3センチくらいにきる。緑茶はいつもより苦く、濃いもので。フォークでうすーくきった羊羹を口にいれて、そのあと緑
小さい頃、祖父母と、毎日山にのぼっていた。朝は、山の上で、皆ラジオ体操をしたり、輪投げをする。ラジオ体操が行われていた小さな広場の奥には、たくさんヨモギが生えていた。ときおり、祖母と一緒につんでかえった。私は、山から家に帰ると自分の部屋でいつも昼寝をしていた。ふと、起きると下の階から良い匂いがする。甘くない匂い。眠たい目をこすりながら降りると、祖母の背中が見える。換気扇がまわっていて、湯気が吸い込まれていく。一番ちかい椅子にすわって、ぷかぷかうかぶよもぎ餅ができるのをみる。よ
小学生の頃、母親とその友人たちとよく行っていた小さな台湾料理の店。カタコトの日本語をはなすおばちゃんが、いつもにこにこしながら出迎えてくれる。今年行った時は、何年ぶりだったのだろうか。入った瞬間に、店の小ささに驚いた。わたしが、成長したのだろう。5人ほどがかこめる円卓と、小さな4人用のテーブルがひとつ。わたしが記憶している、青葉の3分の1くらいの大きさしかなかった。 ここにくると、大人たちは必ず「台湾ビール」を飲む。コップは小さくて、お互いにどんどん注いでいく。その次は紹興
24時間オープンのこの店は、わたしが20歳位の頃バイト帰りによく通っていた。当時、国際会館にあるカジュアルフレンチ&イタリアンの店でバイトに明け暮れていた。夜のバイトが終わるのは大体、10時頃。親の店にいって一緒に帰ろうとおもうと、1時間半くらい時間があく。お腹もすく。まかないには飽きた。ということで、よくここに食べに行っていた。ここの店に来る人は、様々だ。山笠に近づいていくと、いろんな人間がきていることがわかる。のれんの中に入るまでは、みんなの下半身しかみえないわけだけれど