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私をTOMODACHIと呼んだその人は・・・。

私が、関東近県にある小さな旅行代理店で働き始めた頃の話。その人の登場に私は慄いていた。寂れたという表現はちょっと棘があるが、私は実際、その県庁所在地とは思えないほどに落ち着いたその街が気に入っていたし、今もとても愛着を感じている。

その寂れた街の更に、寂れた商店街?とも言えないアーケードの路上に面した旅行代理店の自動ドアが開き、その人が、ぬぼっと店に入ってきた時に恐怖を覚えたのだ。

その人は、いわゆる、「Black」だった。「Black」という表現が正しいか判断がつかないのだけれど、最近ではアフリカ系の人を、その様に表記するのが敬意を示すことになるらしいとネットに書いてあった。

ヒップホップ系のダボダボな服装で、黒い肌によく似合うカラフルな色のTシャツは、やっぱりその人に良く似合っていた。大きな目がギョロギョロと店内を見回していて、私はビクついていた。

差別的な感情でもなく、もちろんその人が暴力的だったわけでもなく、私がその人を見たのが、職場だったから恐怖を覚えたのだ。私は、旅行代理店にいた。世界中の航空券やホテル、鉄道、ビザなど、ありとあらゆる手配を請け負う場所に。

だからこそ、怖かった。その時の私は、未熟過ぎて、航空券手配端末を使うのもままならず、欲しい席は先輩に頼んでブッキングしてもらっていて、情けない有様だったから。

その人が、何を言い出すのか、何をオーダーするのか、それが怖かったのだ。きっと自分の知識量と技術量では太刀打ちできないと思っていた。しかし、タイミング的に他の先輩たちは皆、電話やら接客やらに忙しく、新人であまり予約を取っていなかった私に出番がきてしまったのだ。私は、営業は苦手だったし、好きでもなかった。人前で話すのも、自分の営業トークと言うには余りにも拙いトークを先輩や同僚に聞かれたくなかった。自尊心だけは高ったから、恥をかくのも嫌だった。

ボソボソ喋らない!とよく、社内の人に揶揄われていた。

その人の担当になることは、全くの不運でしかなかった。仕方なく、本当に泣きそうな心境の中、私はその人と対峙した。

その人は、くしゃくしゃの紙を取り出して、これと同じ航空券を欲しいと言った。しかも、明日。できるだけ早くと。

EK NRT DXB DAR・・・・・。その紙は、日本へ来た時の航空券の予約確認書だった。つまり、彼は帰国するためのチケットを探していた。エミレーツ航空でドバイ経由でダル・エス・サラームへ帰りたいのだ。

私は、彼のオーダーをしっかりと留め、チケットを探すために、平常を装いながら自席へ戻った。内心はパニックだったことは言わずもがなである。

ダル・エス・サラーム??まず、地図帳で場所を調べ、マーキングした。私は、不安でいっぱいだったが、自分がオーダーされた世界各国の都市をマーキングすることを忘れなかった。それは、接客嫌いの私の楽しみだったから。

マーキングを終え、調べ始めた。まぁ検索はサクッとできたのだが、翌日出発ということで、席が全く空いてなかった。1席だけ残っていたチケットは約25万円でかなり高額に思えた。

私は正直に25万円のチケットしかないことを彼に伝えた。もう、諦めて欲しいと思う気持ちもあって、これで、その人への接客を終えたかった。

その人は、25万円という金額に絶望していた。20万しかない、何とかそれ以内の金額で探してくれないか?懇願に近かった。その人が持ってきた紙、予約確認書は19万円程のチケットだった。でも、無理なものは無理だから、私は、頑なに困った顔をして、これしかないと言い放った。この時、なぜ、その人が、こんなにも必死なのかとか考えないようにしていた。自分にはもう何もできないと思っていたのもある。

彼は、とぼとぼと店を後にした。

私は、平穏な日常がまた戻ったとほっとして、彼を見送った。自分には手配できない案件なんだと思っていたから、それほどに、私は未熟だった。

自分の浅はかさを後悔したのは、夕方だった。もうすぐ、閉店時間。今日も何とか乗り切れたと思える瞬間はそこまで来ていた。

しかし、自動ドアが開き、その人が真っ直ぐ私を見て歩いてきた。

まじか!?と思った。その人は、友達にお金を工面してもらい、25万円持って来たのだ。午前中、私が案内したチケットを欲しいと。言った。

十分に経験を積んだ私だったら、午前中のその人の様子から、何が何でもチケットが必要なのだと察し、事情を聞き、その席を発券ギリギリまで仮押さえするという提案をしただろう。数年後の私は実際そうだったし。でも、その時の私は途方もなく自信が無さ過ぎて、その人に白旗をあげることで平和的解決を望んだに過ぎなかった。

私は、本当にしぶしぶ。その人の前に座った。手配しようと思ったのだが、なんと、1席しかないその席は無くなって、無情にも手配できる席は35万円になっていた。航空券は生物である。ホテルとか、鉄道とかと比べても流動的だと思う。席数も金額もブレブレに揺れて動いている。

私は、この残念なお知らせを胸に抱き締めてその人の元に戻って、伝えた。怒られるかな?とも思った。失望させる結果だったから、怒りを表す人もいると思ったのだ、八つ当たりに近い感情だと思うけれど、きっと気を悪くして私にも良い印象を持たないだろうと。

その人は、泣きそうだった。目が、あの大きなギョロッとした目が、みるみる湿ってきて、私は心が痛んだ。そして自分の無力を痛感した。先輩たちは、押さえておけばよかったのに、なんで押さえてないの?と無慈悲な言葉を発していた。その時言って下さいよ!という言葉をグッと堪え、私はその人を見ていた。

父が死んだ。お葬式に帰りたい。お葬式は1週間くらい長くあるらしく、それに出席したいから1日でも早く帰国したいと。その人はそう言った。私は、共鳴しやすいから、色んな状況が頭と心を駆け巡り、自分が途方もなく情けなく思えた。きっとその人は、友人や色んな人にお願いしてお金を工面しただろうし、やっとこれでチケットを買えると思ってまた同じ旅行会社に足を運んだのだろうし、切羽詰まってもいただろうし。

そしたら、朝聞いた時とは10万円も高いチケットを案内されてしまったのだ。私が私でなかったら、もっと積極性があり、力があったらすんなり買えていたチケットが無くなった。

彼は、店内のカウンターに突っ伏して、絶望に浸ってしまった。私は、諦めることができなくなっていた。何とか、何とか、探した。色々な方法で。やり方で。先輩も、そばに来てくれて一緒に探してくれた。私は地図を広げて、眺めていた。何とか方法がないか。

ついに私は、閃いた!近くに行けばいいじゃん!と。アフリカの地図を広げて、ダル・エス・サラームの近くにナイロビがあることに気がついた!近くと言っても、地図上のことだし、ダル・エス・サラームはタンザニアでナイロビはケニアだ。国も違う。

おそるおそる祈るような気持ちで、私はナイロビ行きのチケットを検索した。どうかどうかありますようにと。25万円を超えませんようにと。

ヒット!!22万円!!

横にいた先輩は、とにかく、その席を早急に押さえてくれて、タンザニア国籍の人がケニアに行くのにビザはいるのかどうか、など冷静なアドバイスをくれた。

私は、絶望の中にいるその人に、ナイロビまでなら行けそうだと告げた。その人は、すっごく喜び、感謝をストレートに表現した。ナイロビからはバスでも帰れるからと言って、そのチケットを買って行った。

その人は、それから、私のことを、「僕のTOMODACHI 」と呼んでいた。

私は、そう言われても、私らしく、ハニカムだけだった。

Smiycle






Smiycleとは、smileとcycle​をかけ合わせた造語。笑顔は幸せの連鎖を作る。笑顔のサイクルを作りたいという思いから、浮かんだ言葉です。笑顔をプロデュースする活動や記事を続けていきます。サポート頂けたら、幸いです。https://twitter.com/smiycle