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同級生が死んだ‼️

朝礼の校長先生(イメージ)

「昨日、君たちのお友だちがこの地域にあるため池に落ちて、亡くなりました。くれぐれも、あのため池に行く事はしない様に」

浜甲子園小学校
(現在は「甲子園浜小学校」と改称)
浜甲子園小学校
(現在は「甲子園浜小学校」と改称)



昭和40年代、僕が兵庫県西宮市の「浜甲子園小学校」に通っていた頃、全校生徒を集めた朝礼で、「校長先生」が淡々と伝えた。

まだ、その頃は「先生」は「尊敬される存在」であり、僕たちは「卒業式」に「仰げば尊し」を必ず歌った。

そして、「同級生の死」は僕たちの中にだけ留まった。

僕たちは怖いもの見たさで、「同級生が落ちて亡くなったというため池」を恐る恐る見に行った。

アメリカザリガニ

当時、僕たちはそうした「ため池」や「沼」で「アメリカザリガニ」を釣っていたのである。

ため池(イメージ)



「ため池」には既に大人の手によって、「有刺鉄線」が張り巡され、「もう子供は誰ひとり死なすまいという強い意思」を僕ら子供は感じた。

そういう意味でも、「死」は僕らの「身近」に「存在」していた。

そして今、僕が「テレビのニュース」を見ていて、痛切に感じる事がある。

「昭和の時代」より「令和の今」、「情報が伝達されるスピード」が比べものにならないほど、速くなったという事。

京都で暗殺された坂本龍馬



江戸時代、「幕末」、「坂本龍馬」が京都で暗殺されてから、その「死」が江戸に伝わるまで、少なくとも数日は要したはずだ。

数日後、飛脚から「坂本龍馬の死」を聞いた江戸の人々の驚きは如何様なもよがあっただろう。

「インターネット」が登場し、「SNS」の利用者が急増。

テレビのニュース(イメージ)



「テレビのニュース」でも「スマホ」で撮影された「視聴者提供の映像」が当たり前の様に放送されている。

日本全国の「死」の情報の「共有」が猛スピードで「加速化」されているのだ。

だから、「車とトラックが正面衝突して、幼い二人の子供が亡くなった」「休暇で山に登っていたサラリーマンの消息が途絶えた」「川遊びをしていた高校生が流され、溺死した」などなど、「死の情報」が「テレビのニュース」で溢れんばかりに放送され、「インターネット」では瞬く間に「拡散」される。

インターネットの出現



結果、どういう事になるかと言うと、「死」が「軽く消費されていく事」になっているのである。

昭和の時代、当然「インターネット」はまだ存在しないから、「ため池に落ちて亡くなった同級生の死」は、「朝礼に出席した生徒や先生」、そして「父兄」の間にだけに「共有」され、それ以上に拡がる事はまず無かった。

だから、今みたいに、「インターネット」を使って、「他人の意見に便乗した、匿名で無責任な発言を繰り返す輩」も存在せず、もちろん「炎上」などという「愚かな出来事」も起こらなかった。

フワちゃん
松本人志さん



「フワちゃん」の一連の騒動も、「松本人志さんの性加害問題」も「芸能界」から「葬る」という意味では「ある種の死」を意味するのでは。

「死」を知る事は「生きる意味」を知る事。

それゆえ、「現代を生きる人々」が「生きる目標」を見失っているのは「死」が「軽い情報」になった影響も多々あるはずだ。

昭和の時代、「ため池に落ちて亡くなった同級生の死」を僕は未だに忘れられない。

大学受験を苦に「自死」した高校の同級生や長年「様々な番組作り」を共にして来て、先に逝ったキャストやスタッフたちの事も、この胸に深く刻まれている。

葬儀(イメージ)

さらに最近では「コロナ禍」の影響も多々あって、「家族葬」がほとんどになった。

親しい同級生、一緒間に仕事をしていた仲間の「葬儀」にも伺えない。

つまり、「死」を実感できないのだ。

電車の中でスマホばかり見る日本人



「スマホの画面」の画面を見つめ続けずに、「自分の心の内」を見つめ続けたほうが良い時期にもう既に来ているのでは無いだろうか❓

「日本」という「国」は。

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