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【エッセイ】義父は息子を亡くし、娘は父を亡くし、私は夫を亡くした。

朝から雪が舞っていた。
窓硝子は白く、かなり結露していた。
室温計は見るまでもなく、かなり冷え込んで私は積雪を恐れていた。
娘が台所で板チョコを溶かしていた。

そう、今日はバレンタインデー、しかも土曜日ときてる。本命チョコに友チョコに義理チョコ、たくさん作らなければと張り切っていた。
締め切った部屋の中は、チョコの匂いが苦しいくらい充満し、年に一度のイベントだからと家族は我慢していた。

『そんなに一生懸命作らなあかんのか?』
と夫が言った。
『当たり前やん!』
と娘が答えた。
『ところで僕の分もあるんやろねぇ』
と夫が聞いた。
『たくさん作るから、きっと余ると思うねん』
と娘は面倒臭そうに言った。 
『ゲッ!余り?』
毎年同じ会話をしてる父と娘であった。

シンクの中は調理器具が溢れ、所々にチョコが付いてる、
『ちゃんと洗ってよね』
ついつい言ってしまう一言に、娘はまたかと言う顔をした。

『言われなくても分かってる』

娘は高校一年生思春期真っ只中だった。

チョコクッキーにチョコケーキ、何種類作るのか、いつ終わるともしれない特別なお菓子を、一生懸命作っていた。
そんな娘をニコニコしながら夫は見ていた。
男親にとって娘は可愛い存在なんだろう。
鬱陶しいと思われようが、あっち行ってと言われようが、平気で引っ付きにいくデレデレ親父だ。

そんな引っ付き虫を、何だかんだと言っても娘は大好きだった。

夕方になっても、まだ娘は台所に居た。
失敗したと言っては作り直し、納得行くまで作るという力の入れよう。

そろそろ終わりかけたのか、娘が調理器具を洗い出した。
その時、『ゴボゴボッ』
と夫が咳をした。
『お父さん、痰が絡んでない?洗面所行ってうがいして来たら?』
と娘が言った。
夫は娘に促され洗面所に行った途端、そこで倒れてしまった。
娘が大きな音に驚き洗面所を覗くなり、
『お父さ〜ん!お父さ〜ん!お父さ〜ん!』
と何度も呼んだが、全く反応がなかった。

夫は救急搬送されたが、意識戻らず数時間後に息を引き取った。

あれよあれよと言う間に葬儀は終わり、夫が亡くなって4日目には普段の生活に戻ることになった。

私は相続に加えて、全てを名義変更するために
あちらこちらと出歩き、いろんな手続きで忙しい。 
悲しみ、辛さ、寂しさを感じる暇はなかった。

私の思いは片親になったのだから、夫の分まで家の事、子供の事をしっかりしなければ…の一点だった。

2週間して仏壇が届いた。
お寺さんを招き、お仏壇開きとお正念入れをして頂いた。

その翌日から娘に異変が現れた。
仏壇の前に座り朝からずーっと泣いてる。
ただ何もせず泣いている。
毎日泣いている。 
当然学校には行かなくなった。

外に出て、家族連れを見ると辛いという、
ほとんど引きこもりである。
私はどうしたらいいか分からず、何も言えず
娘のしたいようにさせていた。

娘は自分が言った一言が原因で、お父さんが死んでしまったと自分を責めていた。
『絶対それはないから』と言っても、自分が悪いと思い込んでいた。

倒れた父親の姿が頭から離れないと言う。

娘にとってはかなり衝撃的で怖かったのだろう。

まだまだ半分大人で半分子供である。

人生経験が少ない。

大好きな父親との突然の別れに向き合えないのだった。

色々話をしてみるが、理解出来る部分と出来ない部分があった。
慰めの言葉も無意味である。

そんな娘の様子が心配なあまり、私は知らず知らず、娘の一挙手一投足をチェックするようになっていた。

段々娘は私と目を合わさなくなった、そんな時友達と遊ぶからと娘が家を出た。
夜遅く電話がかかって来た。
『もう家には帰らない』と言う。
『どう言う事?』と聞くと、 
涙声で
『もっともっとお父さんに怒って欲しかったのに』
『お母さんには私の気持ちが分からない』と言って
一方的に電話を切ってしまった。

最近になってこの時の事を尋ねてみたら、
お父さんが死んでとても寂しかったんだと言った。
そして『16年しか一緒に生活しなかった』と。

家出した娘は数ヶ月して帰って来た。
家を出て友達と暮らしていた。
友達も親には縁がなく、寂しい思いをしていたと言う。
寂しい気持ちを分かってくれる友達が、何よりの救いだったのだろう。
他人の家で暮らして色々学んだようだった。
精神的に少し成長し、自分の意志で戻って来た。
『やっぱり自分の家がいい』と。
それ以上は何も聞かなかったし、聞けなかったし、
娘も言わなかった。


あれから月日が流れ社会人になった娘は、時々自分から父親との思い出話をするようになった。
娘にも私にも長い年月だった。

義父にとって夫は次男坊だった。
遅くに出来た息子で、長男とは一周り離れていた。
可愛がって育てたのは間違いない。
息子の成長を楽しみに毎日を生き、頑張る姿を誇りに思っていた。
将来が楽しみだといつも言っていた矢先の急死である。

子供の頃から元気で、病気をした事のない息子がいきなりこの世を去った。
元旦に家族揃ってお節を食べた、その翌月に二度と会えなくなったのである、
それはそれは辛いものがあったに違いない。

大正生まれの義父は、地元の小学校や中学校の校長を歴任し、退職してからも『怖い先生』『厳しい先生』と評判だった。
家族にも厳しく、義父に会うと背筋が勝手に伸びたものだった。
しかし、ただた怖く厳しいだけじゃない。
愛情や優しさがそうさせていた。

そんな義父は夫が亡くなってから弱くなった。
小さくなった。
気丈な義父が鼻を真っ赤にして泣いている姿を何度か見た。
やり切れない思いが溢れていたのだろう。

『困ってる事はないか?困った事があったらいつでも電話してこい』と、度々心配して気遣ってくれていた。
実の父以上の父であった。

夫の実家を訪ねた時、義父が言った。
『死んだらどこに行くのや?』
『親鸞さんはお浄土に行くと言わはるけど、西方は
どこやろな』
『お前はどう思う?』

私は答えられなかった。
死んだ息子に会いたいと思ってるのだと察した。
寂しさが伝わって来た。
涙が出そうになった。

義父と私と2人っきりのリビングは静寂で、息をするのも怖かった。

義父は夫の仏壇とお墓を購入してくれた。
『あの子の為にしてやりたい』
息子への父の最後の愛だったのだろう。

夫が亡くなってから2年して、義父は誰にも迷惑掛けずポックリ死んでしまった。義父らしいと思った。

義父は遺言書と一緒に家族に手紙を残していた。
義兄が家族の前でその手紙を読んだ。

『この歳になって、息子に先立たれ悲しかった。
辛かった。本当に辛かった。…』
手紙の冒頭は自身の気持ちを書いていた。

長い長い文面には、家族一人一人に対する感謝の言葉と、エールと、くれぐれも健康でいろよと書いてある。
5ページほどの手紙の最後は
『…あの子が死んで悲しかった。辛かった。本当に辛かった』
押し殺していた思いで締めくくられていた。

手紙を読み終えた義兄が
『最後にまた辛いと書いてるなぁ。二度も書いて、親父はよほど辛かったんやなぁ。』
と感慨深げに言った。

家族の前で、義父は一度も『辛い、悲しい』と口にしなかった。

まだまだこれからという息子を亡くした悲しみや、辛さや、寂しさは誰にも推し量れない。

年老いた義父の気の毒で可哀想な…その心情を思うだけで、今でも泣けてくる。


息子と言い、父と言い、夫と言う、
1人の男性をめぐる関係性は全く違う、立場が違う、年齢が違う。
互いに辛さや悲しさや寂しさを感じていても、
それは同じじゃない。
胸の内はやはり分からない。
それぞれの思いは、それぞれでなくては分からない。

私は息子を亡くした経験も、若くして父親を亡くした経験もない。
正直、義父や娘の心は分からない。
掛けてあげる言葉も見つからない。
けれど寄り添うことだけは出来る。
そばにいて寄り添うだけで充分じゃないかと…
振り返ってそう思う。

#創作大賞2024
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