見出し画像

ある新聞記者の歩み 19 数字相手の仕事ながら、ハチャメチャな先輩やら少年自衛官出身の型破りな後輩やらに囲まれて

元毎日新聞記者佐々木宏人さんのオーラルヒストリー第19回です。4年半の政治部生活を終えた佐々木さんは大蔵省配属となります。現在の財務省です。増税無き財政再建が叫ばれながら困難が増す時代。数字の取材が多い中、強烈な個性の先輩・後輩に囲まれてけっこうおもしろい日々だったと言います。(聞き手-校條諭・メディア研究者)

旧大蔵省正面

◇政治部にいても先は明るくないよと言われ・・・

 Q.1981(昭和56)年に経済部に戻って大蔵省記者クラブに所属ですね。4年半振りに戻られて、経済部にスンナリ復帰できましたか?違和感はなかったですか?

 違和感はなかったなあ。古巣に戻ってホッとしたというのが、正直な感想かな。どうしても政治部では“外様”という感じがあったのは否めません。

まあ、それに経済部長がその時、東京の新聞業界の経済部関係では有名だった歌川令三さん、とくに兜町関係では野村證券の社長、会長をやった田淵節也さんなんかにはすごく食い込んでいました社内外のウワサではいずれ、社長になるとも言われていました。その後、編集局長にもなり取締役だった時、色々あって当時の政治部出身の社長に辞表をたたきつけて辞めた人です。

その後、リクルート事件で名前が挙がり、週刊紙などで追い回されたりします。社内的には毀誉褒貶ある元ワシントン特派員で、辞めた後、中曽根元首相の世界平和研究所主任研究員をへて、日本財団で常務理事までやります。このところはコロナ渦でできませんが、それまでは3ヶ月に1度ぐらい虎ノ門で昔の仲間、数人で飲み会をやっていました。

僕は割とこの人が好きで、原稿がシャープで尊敬していました。彼がワシントン特派員だった時、ちょうど商社担当だったんですが、取材先で「お宅の歌川さんのワシントンからの経済記事、見通しがいいといって社内では評判ですよ」と聞かされていました。社内では歌川さんと仲の良いグループのことを“歌川派”と密かに呼ばれていました。当方もそのメンバーの一人と目されていました。

歌川令三さんの著書(2000年刊)

通常は政治部と経済部の交換人事は1,2年なんですが、僕の4年半もいるというのはかなり異例で、歌川部長にある時呼ばれて「オマエどうするんだ。政治部は使いやすいのでずっといてもいいといっているけど、あそこはオマエと40年入社同期の優秀な人材が三人はいる。まず部長の目はないな。経済部は40年入社は、キミ一人。黙っていても部長になれるぞ!」と言われました。そう言われると戻らざるを得ませんよね(笑)。 

 

◇ハチャメチャながらユニークな発想のキャップのもとで

  それとちょうど財研(財政研究会-大蔵省記者クラブの通称)のキャップが寺村荘治さんといって、歌川さんの後任でワシントンの特派員から帰って来たばかりのハチャメチャの記者でしたから、本当に伸び伸び仕事が出来ました。前に私がイギリスに語学留学した際、帰りに彼のワシントンの家に寄った話をしましたよね。郊外の湖の脇の大邸宅にいて「この池はオレの家のもののようなもんだからボートは自由に乗っていいよ」、「米政府の高官を呼んでパーティーをするのにこのくらいの家でないと、日本の沽券にかかわる」と。とにかくスケールの大きな人でした。

事実、東郷文彦駐米大使が1980年帰任の際、各社のワシントン特派員が集い、この寺村邸で送別会をやってくれたという思い出の記を東郷さんが残されているようです。これを読んだ日経の福田番を政治部で一緒にやった伊奈久喜記者が、20年後にワシントン特派員になるのですが、「大使の送別会を記者の自宅でやるなんて、今ではありえない」と日本記者クラブの会報に記しています。あの豪邸ならさもありなんと思いますね。伊奈さんはその後亡くなりました

 「(こんな大豪邸、事実上の倒産をした)毎日新聞の給料で良くできますね」、恐る恐る聞くと「なに銀行から借りるときは借りないと・・・。」と笑い飛ばしていました。おやじさんは戦前、毎日新聞のベルリン特派員だった人です。でも財研キャップ在任中、当時、博報堂の社長だった近藤道生(元国税庁長官)さんにアッという間にスカウトされ、ビジネス界に転身、毎日を辞めて米国の同社の米政府との橋渡し役のような存在になり、ワシントンに戻りました。

大分たって日本に帰り熱海の高台に別荘を作り、その新築披露の時に招待されましたが富士山、初島、伊豆大島を一望に見渡す凄いところです。この前の熱海の山崩れ事故の時、あの別荘のこと思い出しましたよ。その時も「この別荘スゴイですね、高かったでしょう」と聞くと、「なに購入費は銀行から借りたんだ」とケロッとしてました。その半年後かな、その別荘で大動脈解離で大量出血して、突然亡くなりました。僕が中部本社代表の頃(1998年~2000年)で、名古屋から熱海の家に弔問に駆け付けましたが、60才に届いていなかったんじゃないかなあ。生きていれば当時の思い出話で、楽しく酒を飲めたのに・・・と時々懐かしく思い出します。

 Q.ハチャメチャってどんな感じなんですか?

とにかく抜かれても文句は言わない。デスクからの問い合わせにも、「抜かれたのは俺の責任」と部下の記者をかばってくれる。他社がベタ記事で書いているのを、経済面トップ、一面記事に仕上げると「よくやった!」ほめてくれました。そうなると頑張るんですよね。夜回りもどんどんするし、一面トップの特ダネも出てきます。時々息抜きに次官、主計局長なんかの面会のアポの権限を持っている秘書嬢と六本木のゲイバーに連れて行ってくれたり、取材しやすくする環境を作ってくれるんですね。それでいて自分は予算編成時、夜頼んだ夜回りハイヤーを使うのを忘れて、朝まで大蔵省の前に止めておいて、本社の車両課と、経済部のデスクから文句を言われて「アッそうだった。申し訳ない」と・・・。とにかく憎めないんですよね。

 でも原稿の発想がすごかった。大蔵省の原稿って、小難しい数字だけの無味乾燥な原稿という感じですよね。「同じ人間が国の予算を作っているんだ。どういう人間が作っているのか連載をしよう」といって、予算編成を担当している主計局の主計官全員を一人ずつ取り上げる「主計官物語」を十数回連載したことがあります。連載終了後、赤坂の小料理屋で、登場した霞が関の官僚世界のエリート中のエリート、主計官全員を招いて打ち上げ会をしました。恐らく主計官の“総揚げ”ってマスコミでは前例がなかったんじゃないかな。

 この取り上げた主計官の中には、有名な“10年に一度の大物次官”といわれた斎藤次郎さんがいました。通称“デンスケ”といわれていた斎藤さんは、細川政権で小沢一郎さんと組んで「国民福祉税」構想をぶち上げる黒幕でした。首藤君は彼に食い込んでいたなあ。そのほか取り上げた主計官からは、篠沢恭助、小川是さんなど次官、長官、局長を輩出しています。

 ◇少年自衛官出身など若手もユニーク揃い

 僕はサブキャップという役で、その下に若手が二~三人いるんです。この若手もユニークな人材がそろって楽しかったなあ。一人は愛媛出身の中卒で少年海上自衛官になり、大学検定試験で早稲田大に入って記者になったという西部本社の経済部から転勤してきた異色の首藤宣弘君(すどうのりひろ、のち「エコノミスト編集長」)、それと東大経済学部卒で原稿のうまいひょうひょうとした潮田道夫君(のち論説委員長)。少し遅れて三菱銀行(現・三菱UFJ銀行)の役員の御曹司のおっとりとした藤井晨君、こんな人たちが集まっているんだから、面白くないはずがない。潮田君と藤井君は今でもFacebookでつながっていて、消息を交換しています。

Q.少年自衛官出身の新聞記者というのもユニークですね。

 ホント、海上自衛隊の駆逐艦に乗ってウラジオストックやマニラに行ったことある―なんて言っていたなあ。四国の松山の警察官の息子で酒を飲むと「わしゃ、佐々木さんみたいなひ弱な人間とは違いまっせ」とネクタイを肩に回しながら言われたもんです。まあ、酒の強いこと、強いこと、参ったなあ。でも釣りが好きで本も出しています。証券業界担当の兜町時代、“独眼竜”と異名を取った立花証券社長の石井久さんなどに食い込んで、その独特な相場観で連戦連勝の秘訣を連載、本にしたりしています。

首藤宣弘さんの著書

首藤君は変わった人で電話取材の得意な人でした。昨年残念ながら亡くなりましたが・・・。僕が財研に着任してあいさつ回りで庁内を回っていると、理財局国債課の課長補佐だったか、その後、財務官などを歴任、国際協力銀行の総裁になる渡辺博史さんから首藤君を一度連れてきてほしいと頼まれました。「毎日電話で30分は話しているんだけど顔を見たことないんですよ」といわれてビックリしたことがあります。

 彼は財研に僕より一年か半年位前に来ていたはずです。当時、国債は今のように日本銀行の引き受けはご法度で、市中銀行などのシンジケート団(大型の資金調達の引き受けのために、複数の金融機関で結成される団体のこと)が引き受けていました。その引き受け金利を決めるところが国債課でした。その結果、つまりどのくらいの金利になったかは、経済面の3、4段の記事になったと思います。

 金融界にとっては、その金利は市中金利にも影響を及ぼす重大関心事でした。それを取材するのに、普通なら国債課に直接行くんですが、首藤君は受話器を握りしめて交渉実務を担当していた渡辺課長補佐と電話で延々ねばるんだなあ(笑)。その情報をシンジケート団の幹事行にぶつけて、これも電話で裏を取り原稿にするんですね。といって小まめに省内も取材していましたけど・・・。

 しょうがないから財研新人のぼくが渡辺さんの所に彼を引っ張っていき、名刺交換をさせました(笑)。渡辺さんが「あなたが首藤さんですか!」と思わず叫びました(笑)。なにしろ、電話ではイヤというほどやりとりしていたのに、このときが“初対面”だったのですから。  

「首藤君はエコノミスト編集長時代、黒字化を達成して社長賞を受賞しました(1997年)。 中央の表彰状を持っているのが首藤君です。その左側は小池唯夫会長。」(佐々木さん)

◇ジャパン・アズ・ナンバーワンの時代

 Q.でも経済部を出て四年半のブランク、日本経済も二度の石油ショック(1973年、78年)を経てだいぶ変わりましたよね。経済情勢の変化に追いつくのは、それはそれで大変だったんじゃないですか?

 まあ経済部というのは、突発的な事件を追いかけるケースが多い社会部などと違って、基本はマクロな経済指標を相手にしていくもんだから、そこは取材記者としてスンナリ入っていけるんですよね。例えば毎年の経済成長率を見て行けば、日本経済の現状が分かるわけで、成長率が落ちれば政府としてどうテコ入れしていくか、その景気調整の処方箋を取材していく、その処方箋の内容が大蔵省の場合、毎年の予算に出るわけです。国の収入である税収、何税を減税して、何税を増税するかなど、支出である公共事業などへのテコ入れ、社会保障費、地方交付税などのカットや伸びの抑制の金額がどうなるのか、そこが取材対象になるわけです。民間経済でも同じですね。この経済情勢に合わせて設備投資、人件費の抑制などを、やりますよね。

 ただ当時の情勢を振り返ってみると、1956年から第一次石油ショックの73年まで17年間の平均成長率が9.1%!、1969年には対前年比12.4%(現在は0.9%程度)。一昔前の一時の中国の急成長を見ても分かるように、後進国、中進国が先進国に仲間入りする時、一度は経験する高度成長。その高度成長の夢が忘れられない時代だったと思います。

 事実その2年前の1979年、ハーバード大学教授のエズラ・ヴォーゲルが書いた「ジャパン・アズ・ナンバーワン--アメリカへの教訓」という本が刊行され、70万部のベストセラーになりました。「アメリカよ日本に学べ」というんだからすごいよね。

(1979年刊)

 Q.かなり話題になりましたね。私は、実は読んでません。どんな内容なんでしたっけ?

 読んだ覚えはあるのですが内容は忘れたのでネットで調べると、ヴォーゲルは、「日本の高い経済成長の基盤になったのは、日本人の学習への意欲と読書習慣である。この当時の日本人の数学力はイスラエルに次ぎ2位で、情報については7位だが、他の科学分野についても2位から3位であるという。著者は日本人の1日の読書時間の合計が米国人の2倍に当たることや、新聞の発行部数の多さなどにより日本人の学習への意欲と読書習慣を例証している。」

 ちょっとピンボケな分析のような気がするけど、新聞の発行部数を評価してくれているのはありがたいんですが。“ナベカマ合戦”による景品付き販売で作られた部数と聞いたら、ボーゲルもビックリだっでしょうがね(笑)。日本人は知的で真面目で勤労意欲の高い国民と思われていたんでしょうね。でも国民全部が、がむしゃらに一生懸命働いていたのは事実で、その勤労意欲が高度成長を支えたことは確かだったと思いますよ。水俣病に代表される公害もある時期まで高度成長のひずみと放置され、過労死は企業戦士の死と称えられていた時代でしたからね。

 そのおかげで各家庭には全国すみずみ、三種の神器(テレビ、冷蔵庫、洗濯機)、新三種の神器といわれた3C(カラーテレビ、クーラー、カー)がそろい、サラリーマンはマイホームを構えました。日本の一人当たりのGDPは1990年代には、OECD諸国の中では2~3位になりました。今は20位前後ですが---。1947年の日本人の平均寿命は男50歳、女53歳、1980年にはこれが男73歳、女78歳まで伸びるんですね。今は男女とも80歳を越え、人生百年時代といわれているんですから。戦後の焼け野原からここまでの成長を果たしたわけです。ホント奇跡のような時代でしたね。この時代を牽引したのは、官僚のトップに立つわれわれ大蔵官僚だというプライドがありましたね。 

◇財政が厳しくなる時期、親しみやすい大蔵大臣ミッチー

Q.当時の大蔵省の取材テーマや省内の雰囲気はどんな感じだったんですか?佐々木さんが担当の頃、赤字国債発行が定着してきた時代ですよね。プライドが傷つき始めた時代ではなかったんですか?

 ただ当時、「高度成長の夢よもう一度」、田中角栄首相(1972~74年)の「日本列島改造論」の大号令も生きていて、全国に広がる高速道路新幹線、ハコもの行政といわれた地方の公民館、ホール、学校など公共施設の建て替え、国・地方の予算は膨らむ一方でした。今回調べてみて驚いたんですが、1973(昭和48)年の税収と比べて、僕が財研に行った1981(昭和56)年の税収は2倍になっているんですね。だけど公共事業関係費は2,8倍、社会保障費が4倍になっているんですね。この格差をどうするか。

 僕が財研行く6年前の1975(昭和50)年の予算で、第一次石油ショックの影響から戦後最大の不況で歳入欠陥が生じて、財政特例法を作り2兆2900億円の赤字国債を初めて発行するんですね。それ以降、今日まで止まらなくなり、当時は政策の禁じ手といわれた日銀引き受けが普通に行われて、コロナ渦もあり来年度予算では37兆円の発行、予算の40%強を国債に依存、累積額は先進国最高のGDPの2,5倍の1000兆円を超えています。どうなるんでしょうね。4歳になる孫の顔をみていると、この子が大きくなる時、大丈夫だろうかとホント心配です。

 まあ、話を当時のことに戻しましょう。こういう状況で国の財政が非常に厳しくなっていくんですね。財研に行ったけど、その時の大蔵大臣が中曽根派出身の渡辺美智雄さん、通称“ミッチー”。政治部の時、よく九段の議員宿舎の自宅に夜回りをしていたので、気楽でしたね。栃木弁丸出しで「オマエ、そったらこと聞いて俺がしゃべっると思ってんのか?」という感じで面白かったナ―。省内からも好かれていましたね。そんな明るい感じの大臣ですから、あんまり厳しい雰囲気は感じなかった。

渡辺美智雄元大蔵大臣

 

Q.夜回りのときのエピソードとか何か思い出しますか?

この当時、渡辺さんは福田・大平の“40日抗争で中曽根派を飛び出したりして、政治的には大変な時期だったと思います。でも一橋大を出て税理士の資格をを持っていたから、財政のことは良くわかっていたと思います。でも夜回りでは、政治部の中曽根派の担当記者などと一緒になることが多く、あまり大蔵省のこととは聞けなかった印象がありますね。

 渡辺さんも政治部記者の政治情勢の分析に興味があり、当方もそれに耳を傾け、大蔵省ことあまり聞かなかったような気がします。ミッチーも昼間は、大蔵省の仕事、夜は政治情勢を担当記者から聞くという感じではなかったかなあ。ただグリーンカードの実施推進には、あまり熱心ではなかった印象があります。

 ◇グリーンカード構想の登場と挫折

 Q.話を戻しますが、「増税なき財政再建」というスローガンがあったことは記憶していますが。

 そうそう僕が財研に行った年の予算編成のスローガンが、「増税なき財政再建」というスローガンでした。それで取材のテーマは、一番の問題はグリーンカード(少額貯蓄等利用者カード)の実施でしたね。利子・配当所得への課税-証券会社や郵貯などの匿名口座を、どうやって捕捉するかというのが課題でした。そこに金持ちのお金がものすごく流れ込んでるわけです。マル優制度で300万円までだったら利子に税金がかからなかったですから。

 大蔵省としては最終的な狙いは直接税と間接税の比率、いわゆる直間比率の是正にあったと思います。サラリーマンの源泉徴収システムに安住して、税収の70%強が直接税依存型の税制になっているのを、薄く広く税収を上げる間接税の一般消費税の導入をもくろんで財政再建を目指していました。そのまえに“金持ち優遇”のマル優制度を是正、公平性を担保して間接税・一般消費税を導入して、直間比率を是正しようという深謀遠慮があったと思います。

  注)マル優 預貯金300万円までであれば利子に税金がかからない制度。現在は身障者に限る制度に変わっていて、限度350万円まで。

 当時、お金持ちは、株・債券、不動産売買のもうけなどを匿名で郵貯や、証券会社などに口座を作らせていたんですね、グリーンカードはそこを狙い撃ちして背番号をつけて口座を全部捕捉して課税しようという狙いでした。そうやって網をかぶせて行こうというはずだったんです。

ところがそのもくろみはもろくも崩れます。いったいどうして、誰がつぶしたのか?続きは次回とさせてください。