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ある新聞記者の歩み 23  甲府支局長に赴任。家族6人そろって転居、地域とつながる。


元毎日新聞記者佐々木宏人さんは、44歳の春、山梨県の甲府市局長として赴任しました。中央から行く支局長はたいてい単身赴任でしたが、佐々木さんが異色だったのは、家族(妻と子供4人)もいっしょに引っ越して家まで買ってしまったことです。支局では、地元に明るく指導力あるデスクや、成長途上ながら優秀な若手といった人材に恵まれました。おもに経済部で官庁や大企業取材してきた佐々木さんにとって、新人で配属された水戸支局時代以後は、中央での取材に明け暮れていたので、地方での仕事は実におもしろく有益だったと言います。(聞き手=メディア研究者校條諭)
 

◇支局には“キャリア組”と“ノンキャリア組”がいた。

Q.佐々木さんは1986(昭和61)年4月に44歳で、経済部から毎日新聞の甲府支局長として赴任されるのですね。この連載の1回目で新人として水戸支局に配属されたときのことをお聞きしましたが、今度は支局長として甲府に行かれたのですね。経済部出身者で地方支局長経験者というケースはけっこうあるのですか?
 
支局というのは当時の毎日新聞東京本社編集局内では、静岡県以北、青森までの17県の県庁所在地に置かれた支局と、その圏内にある中小都市に置かれた通信部という地方機関を統括する地方部に属します。地方部長は地方部育ちの人が定年前の“上がり双六”のような感じでなるか、社会部の経験者がなる印象でした。ただ首都圏の横浜、浦和などのニュースも多く、支局員の人数も多い支局はたまに政治部から支局長になる人はいた感じです。
 
大阪本社でも京都、神戸支局は別格の感じでした。でも経済部から支局長になるというケースは、めったになかったんじゃないかなあ。少なくとも当時の経済部現役・OBで支局長経験者はいなかったように思います。ちょうどあの頃は、各部で回そうという感じになってきて、政治部、経済部からも支局長になるようになってきたという時期でした。

佐々木宏人さんが支局長就任当時の甲府支局。その後2018年に移転した。

Q.なんでまた各部から出すように変わってきたんですか?

戦前・戦後、地方支局は通信部を含めて社内では「地方機関」と言いました。ほとんどが現地採用の記者が多かった思います。支局の事務補助員(坊や―と呼んでいましたが)、運転手、男のパンチャーなど主に高卒の人、地元紙で全国紙で活躍したいと思う記者などを引き抜いたケースなど、その時の支局長が見込んで地方記者採用という枠の中で通信部主任にしたケースが多かったようです。
 
そういう地方採用の記者を昭和30年代半ばまでは“赤伝(あかでん)採用”と言っていたようです。それに対して、大卒の採用試験を受けた正社員は支局では“特待生”といっていたと、水戸支局の古い通信部主任の人から聞いたことがあります。でも正式?には社内では「見習生」と言っていたように思います。そういう特待生は支局に1人か2人、しかも1年しかおらず、本社の社会部、政治部、経済部、外信部に上がる時代が続いていたようです。ですから当時の支局員のほとんどが“赤伝採用”だったようです。
 
でも昭和30年代半ばからだんだん大卒の正規採用が増えて、“赤伝採用”の人達は通信部主任になり、本社に上がったり、支局員の大半は正規の大卒社員に代わっていきました。ですから昔のように1年で本社に上がるなんてことはなく、ぼくは新人の頃5年いましたからね。ぼくが新人で水戸支局に行った1965(昭和40)年の4年前、水戸支局にいたという、後に社会部の創価学会批判などでスター記者となる内藤国夫さんは、2年か3年しかいなかったという話を聞いたことがありますから・・・。
 
ですから支局長も地方部出身者がなるケースが段々と少なくなり、編集局の各部で回さないといけないようになってきたんじゃないかな。それと新人教育という観点でも、各部出身の支局長がいた方がいいという事になったんだと思います。
 
Q. 赤伝採用の赤伝という言葉の由来は何ですか?
 うーん、戦前の軍隊への召集令状の“赤紙(あかがみ)”じゃないけど(笑い)、すごい表現だよね。調べてみると地方部の経費の枠の中で採用するので、経理清算の伝票が赤かったからという説があるようです。
 
Q.なんだか、採用差別のようで、あまり人聞きのいい言葉じゃないですね?(笑)。今だったら大変ですね(笑)。官庁のキャリアとノンキャリアみたいなものでしょうか?
うーん、戦前の軍隊への召集令状の“赤紙(あかがみ)”じゃないけど(笑い)、すごい表現だよね。調べてみると地方部の経費の枠の中で採用するので、経理清算の伝票が赤かったからという説があるようです。

 中学3年の頃だったか、ぼくのおやじが毎日新聞の長野支局長で、たまたま見ていたのですが、松岡英夫さんという当時の編集局長で余録(1面下のコラム)の筆者になっていた時期もあった、オヤジと同期生で都知事選にも立候補したことのある人から電話が来て、当時いた見習生(特待生)を「政治部に上げる」ということになったのです。オヤジからその辞令を聞いた見習生のYさんは、「ホントは社会部に行きたかったんだよな」とつぶやいたのです。回りのデスクで原稿を書いていた赤伝の記者たちが、聞こえないふりをして原稿を書いていた様子が、ぼくの記憶に焼き付いています。まあ、うらやましいというか、くやしいというか、あの雰囲気は忘れられないですね。ジャーナリズムは正義の味方―なんて言いながら、社内には一種の身分差別があった時代ですね。
 
Q.通信部というのは、支局の傘下にある自宅兼事務所で、一人で地域を担当していているというのが私のイメージですが・・・。家族も電話に出て手伝っていたりして・・・。そんなイメージですか?
 まさにそうです。この連載の第1回でお話ししましたが、初任地は水戸支局でした。当時は電話も市外局番もない時代で、管内の水戸に次ぐ人口を持つ市の土浦、日立であろうが電話局に申し込まなければつながらない時代でした。僕が水戸にいる時期にダイヤル直通になりましたが、それより前は各通信部と午前10時と午後4時頃だったか、支局との「定時通話」を電話局に予約しておくのです。その定時通話をかけるのは新人の仕事で、通信部に掛けると奥さんが出てきて「主人は取材に行っていますが、さきほど『今日は原稿はない』と連絡がありました」というわけです。デスクにその旨伝えると「どうせまた市役所のクラブでマージャンでもやっているんだな」なんて悪態ついていました。
 
ぼくが新人で配属された水戸支局では、日立、高萩、常陸太田、笠間、竜ケ崎、取手、土浦、下妻、鹿島など県内主要地に通信部がありました。その主任は、だいたい40代から50代の人ばかりでした。我々は学生運動かなんか経験していて、頭でっかちで、くちばしの青い雰囲気でしたが、それとはまったく違ってました。いい意味で通信部主任の人達は、その土地で根をはやし、地元愛が半端ではなかったですね。人間的魅力が新聞記者には必要なんだと教えられましたね。
 
でもそれから20年後、甲府支局に行った時、通信部が少ないのに驚くと共に時代の変化を感じました。常駐の通信部は富士吉田、大月、韮崎、くらいでした。ポケベル携帯電話など通信手段と車社会の進展で、事件、事故なんでも記者個人のマイカーで県内隅々まで取材できますからね。
 
Q.でも若い記者を一ヶ所に5年も置くのはどうなんでしょう、長すぎませんか?
 ウーン。でも東京だけではなく、地方の存在を目に焼き付けるわけで、警察、市役所、県庁という具合に日本国の縮図を取材するので、役には立つと思います。でも5年置いていいのかなという気もしないではないです。ぼくも5年いましたが・・・。それで5年いると、そこで結婚相手も“現地調達”ということになるわけですよ。ぼくは違ったけど(笑)。
 
Q.キーパンチャーの方とかですよね。
 そうそう。キーパンチャーの人は地元の高校の優秀な卒業生でしたよ。ぼくの同期の仲間にもいますよ。東京の大新聞の記者!というだけであこがれがあったんじゃないかな。新聞の黄金時代ですよね。

◇絶対に家族で行くぞ、地元とつながるんだ


ぼくが甲府支局長になったのは44歳で、支局長になる年齢としては若い方でした。「歌川のお陰で支局長になった」なんて編集局内のやっかむ声も聞こえてきました。歌川令三さんはワシントン特派員を経て、経済部長をやり、当時は取締役編集局長というポジションで、「将来は社長」ともウワサされ、外部でも大蔵省の政府税制調査会の委員などに指名されるなど、いわば社内では飛ぶ鳥を落とす勢いの人でした。ぼくは歌川さんにわりと可愛がられ、社内では“歌川派”と目されていたと思います。

このころ編集局は各部から各支局に出して行くという方向を打ち出していて、経済部の先兵として指名されたわけです。まだ、当時は地方採用の55~60歳定年間近かの支局長がけっこういました。その人たちが辞めた後、地方部や社会部だけでは支局長職は回らない、各部から出していく方向にしなくてはという時期だったと思います。そういう中で、歌川局長の“子飼い”が経済部から行ったと目されて、地方部などにしてみれば冷ややかにお手並み拝見というところだったでしょうか。
 
Q.なるほど。それで佐々木さんはどういう風に受けとめられたのですか?
 各部から支局長に行くようになった当時、支局長で行く人は、基本的に今でもそうでしょうが単身赴任でした。地方部の人たちもそうでした。受験適齢期の子供がいたり、夫婦共稼ぎだったり当たり前ですよね。しかしぼくは絶対家族で行く、それで地元とつながるんだと、そういう思いも含めて支局長というポジションを受ける--それがまず思ったことでした。まあ、建前はそうですが、本音のところ「お手並み拝見!」という冷ややかな目に対抗するという気分もありましたね。
 
Q.ご家族の反対はなかったのですか?
女房のおやじさんが八幡製鉄(現日本製鉄)勤務のサラリーマン、九州・広島、名古屋、東京と転勤族で、女房は転勤は家族でいくものと考えていましたから、転校は当たり前。辞令を受けた翌日から、子供の学校の転校手続きなどの準備を始めたのはビックリしましたね。
 
当時、ぼくは子供が4人もいて、いちばん上が小2で、その下が小1、幼稚園2人でした。毎日新聞甲府支局は県庁のすぐ近く、子供の小学校も支局と目と鼻の先。甲府駅から歩いて7,8分、市内のメインの通り「平和通り」に面した甲府警察署のある一角でした。たぶん県有地を払い下げてもらったんじゃないかと想像してますが----。屋上には大きな「毎日新聞甲府支局」と書いた高さ3メートルはあったんじゃないかなー、大看板が立てられていました。目立ちましたねー。

ビルは3階建て、その3階に支局長住宅がありました。これがコンクリートの打ちっぱなしのところで、とてもじゃないけど住むようなところではなかったです。夜なんか窓をあけてるとコウモリが飛んでくるんですよ(笑)。掃除もたいへんでした。それと隣の警察のパトカーの朝から晩までサイレンを鳴らしての出入りの音がうるさくて(笑)。ほうほうのていで3ヶ月で逃げ出しました。
 
支局から7,8分、離れたところに当時だれも住んでいなかった「次長社宅」といわれる家があってそこに移りました。2階建ての築30年か、もっと古いかもしれない屋根にとんがり帽子のついた西洋館でした。できた当初は有名な建築だったらしいです。畳を替えるなどかかなり手を入れました。その経費は会社が出してくれたと思いますが。子供の学校が近いのは助かりました。

Q.社宅は社の所有ではなく、借り上げ社宅だったのですか?
 そう、借家ですね。1階の玄関脇には洋間があって、左手には台所がありました。あと8畳間と6畳間があったような・・・。2階は2部屋あって、12畳くらいと6畳くらいだったか・・・。2階は支局員が全員集まって宴会ができるくらいの広さでした。1年に1回くらいみんなを呼んで宴会やりました。庭はそんなに広くなくて10坪くらいだったと思います。
 

◇甲府に家を買って地元に定着、東京に異動後も“半身赴任”

実はその一年後位かな、市内の武田信玄の武田節で有名な「躑躅(つつじ)ヶ崎」の城跡にある観光名所の武田神社近くの大手二丁目に、東京・杉並のマンションを売って一戸建ての家を買いました。昔、甲府支局管内の大月通信部にいた記者が辞めて、市内で不動産屋やってたんですね。その人の世話で、100坪強ある広々とした平屋を買ったんです。広い部屋は5つあって、庭が30坪くらいでした。
 
そこに引っ越して、子供たちはみんなそこで育って、一番下の子が高校を卒業するまで10年近くいました。1988(昭和63)年4月に、甲府支局から経済部に異動になったのですが、そのあとも家族は甲府に残して、ぼくは毎週東京から甲府に戻るという生活でした。金曜の夜に帰って、月曜の朝早く出社してました。金曜は宴会の二次会は遠慮して、午後9時頃新宿から最終の「特急あずさ」に乗って、甲府では妻がクルマで迎えにきてくれました。単身赴任ならぬ半身赴任と言ってました(笑)。
 
今思うと、JRに毎週往復6千円、十年近くそういう生活をしていましたから、計算したら3百万円以上も払っていたんだね。バカなことをしたなという気もしますけどね(笑)単身赴任手当は出てたけど、それでカバーできる金額じゃないですからね。

 
Q.どうしてそんな気になったんですか、ほとんどの支局長が単身赴任だったんでしょう。
甲府には腰掛けではないぞという気持ちで、少々意地になったというところはありました。支局長をやめたらもう縁がなくなるというのが普通で、どうせパッといなくなると見られていたでしょうから・・・。
 
Q.転勤族というか通り過ぎる人だという・・・。
 そうそう。それは言わせないぞ、という気持ちがありました。「歌川のおかげで支局長になった」なんてかげでは、色々ウワサされていましたからね。考えてみればバカなことやってたとも言えますけどね(笑)。その分、老後の貯金にすればよかった思いますけど(笑)。東京では杉並の実家に住んでましたから、東京での住宅問題はありませんでした。両親健在だったし、少なくとも朝メシは世話になってました。晩メシは仕事上、なかなかありつけなかったですけどね。
 
Q.いえいえ、すばらしい精神だと思います。住んで土地が気に入ったということもあるのですか?
 それはありましたね。周囲を山に囲まれて空気はいいし、朝は富士山南アルプス八ヶ岳が全部見えて景色はいいし、住環境としては最高でしたね。子供たちも甲府にいたっていうことで後悔はしてないみたいだし、友達もいるし、よかったのかなと思います。
 
Q.赴任された日のことを、2年後離任されるときにコラムで書いておられますね。

赴任の日、特急「あずさ号」でトンネルを抜けると、パッと一面の桃の花。その背景には雪の八ヶ岳、甲斐駒がそびえ、東京のビル街を見慣れたものにとっては、息を飲む思いでした。」

(佐々木宏人「やまなみ随想」、毎日新聞山梨版1988年4月11日)
甲斐駒ヶ岳(山梨県ホームページから)

◇地元通の辣腕デスクがいて大助かり、ぼくは事業で金集め

 
Q.お仕事の方はいかがだったのですか?
 ぼくはものすごく恵まれていました。デスクに、秋山壮一君という人がいました。年齢的にはぼくと同じでしたけど、数年前に亡くなりました。彼はもともと山梨時事新聞というところにいたのですが、昭和44年頃、同社は事実上倒産、現在は唯一の県紙の山梨日日新聞に事実上吸収され、時事新聞からは社員が各社に流れて、毎日に来た人は10人は下らないんじゃないかな。
秋山君は青森支局にいっていたのかな、そのあと甲府支局のデスクをやってました。地方の支局の中でも秋山というデスクは優秀だと言われていました。
 
Q.佐々木さんが赴任される前からデスクをやってたのですか?
 そうです。半年くらい前からかな。おそらくぼくを支局長に出す側の歌川さんの息のかかった山田尚宏経済部長も、ここだったら“佐々木支局長”でもだいじょうぶだと踏んだのでしょう。本当に秋山デスクには助かりました。優秀なデスクでした。原稿のさばきはいいし、地元紙にいたわけで地元のことは全部知ってるし、いろんな県内政治の動きなんか本当によく知っている人でしたから。だから、若い支局員の原稿のチェック、事件事故の取材の指揮だとかは、安心して彼に全部まかせてました。人柄も温厚でした。

このヒアリング受けるので、当時の一番若かった隈元浩彦君に秋山デスクのことを聞いたんです。隈元君は前「サンデー毎日」編集長でした。「秋山さんに連れられて深夜、小さな殺人事件の現場に行きました。『現場百遍』という言葉を教えてくれました。着任して間もないころ、オロオロしているのを見るに見かねて『クマちゃん、いいか、新聞記者は人間が良くても、ネタを取ってこなくては生きていけないんだ』」と諭したというんだな。初めて聞きました。

ホント、クマちゃんは入社当時、素直で人間的に誰からも好かれる人なんだけど、図々しいところがなく謙虚で、押しが足りないところが当方から見ても歯がゆいところもあって、新聞記者として大丈夫かなあと思ったこともあったんだけど、秋山君が裏でこんなふうにコーチをしていたなんて、知らなかったなあ。報道し終わった殺人事件の現場で、深夜、秋山、隈元記者の二人がたたずむ姿を思い浮べると、新人記者をそだてようという秋山さんの執念を感じて、なんかウルウル来るなあ。秋山さんのお陰でクマちゃんは大成したと思うなあ。
 
Q.隈元さんの話が出ましたが、次回改めて伺いますが、当時の支局員には現在の毎日新聞の社長の松木健さん、編集委員で私も愛読している週一回のコラム「掃苔記」で終活問題や防衛問題など幅広い原稿を書いている防衛大出身の滝野隆浩さん、今語られたサンデー毎日の編集長になられた隈元浩彦さんなど多彩な人材がいたようですね。佐々木さんの時代にこんな優秀な記者がでたのは、“佐々木支局長”としての指導があったんじゃないですか?
 
そうなんだよね。不思議なんですよ。この校條さんのインタビューを受けて初めて気がついたんですが、彼らを筆頭に支局にいた若い記者たちの事件・事故や苦労や活躍状況、原稿の記憶などほとんど覚えていないんですよね。結局全部、秋山デスクにお任せしていたんだという事に気が付きました。クマちゃんの話なんかは、そのいい例ですね。彼らを育てたのは結局、秋山さんだと思います。その意味で支局長失格ですね。逆に彼らは自由奔放に活躍できたから良かったのかな(笑)?
 
Q.(笑)支局長としては何をやっていたんですか?やることがないんじゃないですか?(笑)
 そう思うよね(笑)。でも週に一回月曜日は県版に「やまなみ随想」と言って支局長の署名入りで、400字詰め原稿用紙なら3枚程度のその時々の政治、経済、社会問題についての話題を軽い、タッチで掲載しなくてはなりません。そのネタを手に入れるため県内各地を訪ねたり、人に会ったりしました。でもまあ、東京での経済部、政治部での抜きつ抜かれつの取材に較べれば楽なもんですよね(笑)。

そこでぼくは事業、“金もうけ”の方に力を入れて、支局経費を潤沢にして支局員の取材に不自由の無いようにしようと思いました。当時、山梨県というのは高速道路の発展などあり、東京に近いという地の利を生かしてパナソニック、東京エレクトロン、ファナックなどが進出していた時期でした。観光開発も進み、富士五湖地方の村長選なんかは「一票10万円、村会開会中には村役場の駐車場にはベンツやベントレーが並ぶ」というウワサがあったほどです。バブル経済の波が県内にも押し寄せてきた時期でした。
 
ちょうど甲府に赴任したその年の9月から「かいじ(甲斐路)国体」が予定されてました。一方、毎日新聞社本体は新旧会社合併間もないですから、国体には全国から取材記者が集まりますが、経費節減が叫ばれ支局の経費が足りないんです。他本社の若い記者連れて飲みに行ったりとか、出先の連中を接待したりとかは、支局の経費じゃあとても追いつかないですよ。だからぼくのやることは“金儲け”だと決めたんです。
 
国体の翌年は、春の選抜高校野球で山梨県では史上初の東海大甲府高校、甲府工業の二校出場が決まり、甲子園の出場の時の別刷り、なんといってもこの時二校とも準決勝に進みましたからね。その翌年の1988年の春、NHK大河ドラマの「武田信玄」がスタート、山梨県中が沸き立っていました。この時の50ページの別刷りパンフレットの作成など、せっせと飲み屋街に通って人脈を広げて広告取りやりました。ですから他の支局長は「支局経費が少ない」とボヤいていましたが、その面では苦労はありませんでしたね。

この時、ある建設会社の社長から広告を貰ったのはいいのですが、社名を「前㈱」と「後㈱」を間違えて、○○建設㈱を㈱○○とやって、こっぴどく怒られました。なるほど広告にも神経を使わないとエライことになる―と知りましたね。この辺の感覚が後に広告局に行った時、役に立ちましたね。
 
Q.でも編集を預かる支局長が金儲けに走るのは、批判もあるのではないですか。
そうなんですよ。支局長は取材のサポート役、県版の紙面管理に目を光らせていればいいんだ。金儲けなんて邪道だ、という感覚が編集記者にはあります。♪ボロは着てても心は錦♪。ジャ―ナリスストがに儲けに走るのは、“ごろつき記者”トンデモナイという意識が強いですよね。でも新聞社も企業、お金が入って初めて記者の給料が入るんですよね。ただ、編集記者が金儲けをやる際、注意しなくてはいけないのは、販売にも広告にもメリットがある。そういう観点で資金の流れを公明正大にやるという事です。事業をやって支局長が、自分のフトコロに入れたなんて話しは聞こえてきたことがあります。そこは細心の注意をしましたね。
 
それで国体のときに支局の一階にあった県版広告の集稿を請け負っていた「山梨毎日広告社」と一緒になって、「かいじ国体ガイドブック」という40ページか50ページのパンフレットを作りました。読者サービスで毎日の購読者全部、1万部か、2万部印刷、配布しましたと思います。その広告集めをやりました。集めた金は全部、山梨毎広を通すようにしたと思います。 
 
パンフレットの裏表紙カラー広告は全日空でした。前からよく知ってる全日空の広報部長に頼んで、50万円だったか30万円だったか出してもらいました。総売り上げは2,3百万円はあったかな。確か山梨毎広を窓口に原稿料の形でのキックバックは支局に50万円近くはあったんではないかなー。お陰様で国体は経費的には乗り切れました(笑)。
 
今でも思い出しますが、当時TBS系列の地元テレビのUTY(テレビ山梨)社長の中山典村さんのところに、20万円か、30万円の広告出稿のお願いに行ったんです。その時中山さんが「毎日新聞の支局長とは歴代付き合ったけど、金の無心にきたのはアンタが初めてだ」と笑いながら、応じてくれたことを憶えています。 

◇「無尽会」が取り結ぶ横の関係


 Q.山梨県は当時から政争が激しく、“甲州選挙”なんて言われて大変だったと聞きますが、どうだったんですか。
 そうなんですよ。例えばUTYの中山社長。当時の中山社長は、TBS系列の中でもなかなか力を持った人でした。終戦間もない若い頃、日本共産党の山村工作隊に入ってたんです。ぼくはわりと仲良かったです。まあ底抜けに明るい、清濁併せのむ面白い人でした。
 
びっくりしたのは、衆院選挙になって駅前の金丸信さんの後援会組織の「久親会」事務所に取材で顔を出したら、いちばん奥に中山さんがでんと座ってましてね。本来中立であるべきテレビ局の社長が、自民党の選挙事務所の事務長みたいにして座ってるんですから(笑)。山梨はすごいところだと思いましたよ。山梨っていうのは政治家との距離がものすごく近いんです。選挙が好きなんです。地方はそういうところが多いかもしれないですが。
 
共産党の市会議員だって飲み屋でいっしょになって話をすると、「市会議員の中で金丸といちばんパイプがあるのはオレだぞ」とえばっていましたよ(笑)。保革を超えて横のつながりが強いんです。それは何でかというと、山梨県には、特に甲府周辺には日本に2ヶ所(もう1ヶ所は沖縄?)しか残ってないという相互扶助のつながりを持つ“無尽会”というのが縦横無尽にあるんです。
 
たとえば幼稚園に入ったときに、同じクラスになった父兄10人か、20人程度で無尽会というのを作ります。小学校、中学校、高校もそうです。その無尽会でつながりができるっていうのはどういうことかというと、偶然ですから政治的には自民党、社会党、共産党の支持の人もいっしょになりますよね。それで月一回程度、飲み会をやるんです。市会議員クラスの政治家でも、そういう無尽会が50とか60は入っているんじゃないなナー。
 
中央高速道を降りて山梨県内の国道を走ると、飲食店の看板に「無尽会歓迎」という看板が目につくのに気づくと思います。まさに、無尽会の存在の大きさを示していると言っていいでしょう。
 
Q.無尽会のシステムってどうなっているんですか。
 会のシステムは、会の成り立ちや、単なる親睦会か、商売の役に立つかなどで違ってきますが、集まった人がその場で3000円、5000円、1万円出し合います。飲食費とは別です。たとえば5000円で10人だと5万円。それを“あみだくじ”で落とすわけです。落とした人は次回は外れます。だから必ず、いつかは当たって自分に戻ってくる。でも「今月どうしても金が必要なので、今回はオレに落とさせてくれ」なんてこともあります。年12回くらいやるかな。無尽会未だに残ってますよ。だから人間関係の横のつながりが強いわけです。

選挙なんかになると無尽会がものすごく動きます。たとえば「〇〇を知事にする会」なんてのは無尽会がコアになっていて、アメーバみたいにつながって、無尽会をつないでいけば甲府市内をカバーできてしまいます。ぼくもいくつか入ってたことがあります。東京の人なんか、そういう人間関係がいやだっていう人もいます。だけどぼくなんかおもしろがってました。
 
無尽会にも中にはとんでもないのがあって、1回に10万円とか20万円なんていう・・・。これで12人くらい集まったら120、240万円になりますね。それを落として県外に逃げちゃったなんて話も聞きました。土建屋だと1回30万とか50万なんてのもあるといいます。でも、いつかは自分の所に戻ってくるというしくみです。
 
東京に転勤になってからも、地元出身の赤伝採用の人や、山梨時事新聞から毎日に入った秋山君などが定年を過ぎた連中で10人位集まり、月一回の3000円会費の「毎日OB無尽会」を土曜の夜にやっていました。知事選が近くなると冗談話で「佐々木さん知事選に出なさいよ。そうだこの会を”宏人(こうじん)会”にしましょう」なんて馬鹿っ話をしたり楽しかったなあ。秋山君が亡くなり、さらに、支局の運転手だったけど、記者に採用され、新人などの面倒を親身に見てくれていた、甲州弁丸出しの小林富徳さんが亡くなったりして7,8年前くらいから自然消滅してしまいました。  

こういう無尽会があるため、“甲州選挙”といわれるほどの激しい選挙戦が、行われます。この辺は次回にでも話しましょう。   (以上)