見出し画像

ある新聞記者の歩み (序)

◆真夏の教会ミサ

2020年8月16日、横浜市のカトリック保土ケ谷教会の主日(日曜日)のミサがYouTubeで中継され、元毎日新聞記者でカトリック信者の佐々木宏人さんがパソコンの画面に見入っていました。
アダム神父が冒頭、この日の記念ミサの意義を説明し、その中で佐々木さんが2018年に出版した『封印された殉教』(フリープレス刊)を手にとって掲げました。アダム神父は「著者の佐々木宏人さんは、長年かけて取材をされてこの本をお出しになりました。平和の使徒としての戸田帯刀(たてわき)神父様のことを、何とか忘れないでほしいという願いがあったと思います。」と語りました。

1945年(昭和20年)8月18日、つまり終戦の日の3日後に、この保土ケ谷教会で戸田帯刀神父(事件当時横浜教区長)が何者かに暗殺されました。その歿後75年の記念ミサでした。誰が何のためにやったのか。そもそもこの事件の存在自体が長きに渡って知られなかったのはなぜか。謎があまりにも多いこの事件について、カトリック信者として佐々木さんは一種の使命感をもって取材に取り組みました。

佐々木さんが普段通うのは自宅から近い東京杉並の荻窪教会ですが、パソコンを通じて聞く神父の言葉に、新聞社の退職後およそ10年をかけて取材にあたった苦労のことが脳裏に浮かび、こみあげてくるものがあったといいます。

封印された殉教表紙

◆「新聞記者佐々木宏人」との出会い

私が初めて佐々木宏人さんの講話を聞いたのは2019年6月のことでした。毎日新聞東京本社内の毎日メディアカフェで、佐々木さんが「神父射殺事件を取材して見えてきたもの」と題して話したのでした。毎日メディアカフェでは、コロナ禍に見舞われる前までは、毎週のようにセミナーが開催されていました。

毎日メディアカフェで聞いた佐々木さんの話はたいへん興味深いものでしたが、それ以上に私は「佐々木宏人」という人そのものに関心を持ったのでした。セミナーのあとの懇親会で言葉を交わす機会を得た上に、たまたま自宅が近く、同じ駅が最寄り駅であることもあって、お開きのあといっしょに帰りました。その後も何度かお会いする機会があり、私はこの人の記者人生を詳しく聞いてみたいという欲求を持つようになりました。一人の記者の足跡をたどるというのは、メディア研究の方法論として意義深いという確信がありました。一人の人の連綿と続く記者生活を通して、時代時代のメディアのありようや社会の実像が見えてもくるだろうと期待しました。

◆Zoomで連続インタビュー

幸い快諾をいただいたのですが、当初は、会議室とか喫茶店で会って話を聞こうと思っていました。ところが、折悪しくコロナ禍に見舞われることになって、お互いの自宅をつないでZoomで話を聞いたらどうかと思いついたのです。これが実に瓢箪から駒で、喫茶店などで会うよりもよほどやりやすいということがわかりました。わざわざどこかに足を運んでもらう必要もないし、顔をみながら心おきなく話ができます。パソコンに入っている資料はすぐに双方で共有できるし、何かの本を参照したいとなったときにも書棚から取りだして手元に持ってこられます。録画が簡単にできるのも助かります。こうして、週1回約2時間のペースでこれまでに15回ほど話を聞いてきてなお数回続きそうです。

◆毎日新聞を勤め上げ、その後も記者として生きる

佐々木宏人さんは、昭和16年(1941年)12月8日の真珠湾攻撃から2ヶ月半ほどさかのぼる9月25日、父親の出征中、東京から疎開中の母の実家の北海道釧路市で生まれました。その後、終戦まで4年ほど釧路で乳幼児期を過ごしました。終戦の1ヶ月前、釧路は空襲を受けています。まだ4歳にもなってなかったのですが、避難した蔵の中での記憶が残っているといいます。それほど強烈な経験だったのでしょう。

戦後は主として東京杉並に住み、1965年(昭和40年)に早大政経学部を卒業、毎日新聞社に入りました。

入社前年は東京オリンピックが開催された年でした。ベトナム戦争が泥沼化し、日本国内では60年安保条約改正反対運動が燃え盛り、学生運動も日本中の大学を席捲していました。高校の同級生の中には1969年の東大全共闘で安田講堂に立てこもり逮捕された人もいました。各地の公害問題が火を噴き、新聞自体が社会の指針の中心的存在で、大学生の就職希望リストのベストテンに常に朝日、毎日新聞は入っていたと思います。その社会の新聞への期待が熱い時代に入社しました。

まず水戸支局に配属されて5年間過ごし、記者としての基本を身につけました。1970年(昭和45年)からは経済部や政治部に所属、エネルギー分野を主対象に、通産省担当として第一次石油ショック、高度成長期の日本経済の最前線を取材しました。さらにその後、バブルの進行とその崩壊時代、失われた20年の時代にも経済部記者、政治部記者として立ち会いました。

2001年(平成13年)に同社を退職するまで36年間毎日新聞社に在籍したことになります。そのすべての期間記者職であったわけではないのですが、組合委員長や、甲府支局長、経済部長という第一線を経て、広告局長、中部本社代表を経験した時期も含めて、佐々木さんは記者という意識を持ち続けてきました。

それどころか、佐々木さんは退職して自由の身になった後も記者であり続けたと言っていいでしょう。佐々木さんが、冒頭紹介した教会の記念ミサで神父が掲げた本『封印された殉教(上・下)』を出版したのは、退職後17年ほど経った76歳のことです。実際、約10年の年月をかけ各地を歩き回り、多くの人に会って取材を重ねるという文字通りの記者としての取り組みをしてきました。それが上下合わせて800ページ以上に及ぶノンフィクションとして結実しました。

このあと、入社直後の水戸支局時代を皮切りに、経済部、政治部などでの経験を中心に、記者としての歩みを連載で辿っていくことにします。(校條諭)

→ ある新聞記者の歩み 1.水戸支局時代はこちら

→ 各回に飛べる一覧インデックスページはこちら

佐々木宏人氏略歴

佐々木宏人氏写真

1941年、北海道釧路市生まれ。65年早稲田大学政治経済学部卒、毎日新聞社入社。水戸支局、経済部、政治部記者を経て、85年甲府支局長。在任中戸田師射殺事件を知る。
91年経済部長、広告局長、役員待遇中部本社代表、㈱メガポート放送専務、2001年毎日新聞社退社。
(株)チャンネル常務などを経て2010年より『封印された殉教』を執筆。
現在NPO法人ネットジャーナリスト協会事務局長。

著書『封印された殉教(上・下)』(フリープレス、2018年)
共著『茨城の明治百年』(毎日新聞社茨城支局、1968年)、『当世物価百態』(毎日新聞社、1976年)、『岐路に立つ中国市場』(Japan Times社、1995年)、『トップが語る21世紀のITと経営革命』(日経BP社、1998年)

校條諭略歴

メディア研究者。1973年野村総合研究所入社、経営環境研究室長を経て、ぴあ総合研究所設立に参加。野村総研、ぴあ総研を通じて情報社会、メディア産業、消費者行動などの調査研究に従事。1997年ネットビジネスで起業し、ネットコミュニティのサービスを開発、提供。1999年ネットラーニングの新サービス立ち上げに参加。2005年以後、個人の健康づくり支援活動を組織、2012年NPO法人みんなの元気学校設立。
現在、ネットラーニングホールディングス社外取締役。NPO法人みんなの元気学校代表理事ほか。
著書『ニュースメディア進化論』(インプレスR&D、2019年)、編著書『メディアの先導者たち』(NECクリエイティブ、1995年)、共著多数