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ある新聞記者の歩み 26 支局のもうひとりの若手、のちのオウム事件での激烈な取材の原点?!

元毎日新聞記者佐々木宏人さんのオーラルヒストリー第26回は、甲府支局時代の若手3人のお話の3人目です。クマちゃんの愛称で呼ばれる隈元浩彦さんは難しい取材にも積極果敢に当たっていく人でした。それでいて、特ダネをモノにしても自慢したりしない隈元さんは、今も生涯一記者としての道を歩んでいます。
三者三様の若手にのびのびと仕事をさせた佐々木さんにとって、甲府支局長時代は、新聞記者人生の中でも格別の思い出として残りました。(聞き手=メディア研究者 校條諭)

◇難しいことでも「やりましょう!」

 

隈元浩彦 毎日新聞記者 1961年生まれ。M資金など現代史の暗部、差別と冤罪、死刑、ハンセン病問題などを取材してきた。著書に『日本人の起源を探る』(新潮社)、「『死後の世界』研究」(毎日新聞出版)など。写真 THE QUARTALY MEIJIより

Q.最後の1人、隈元浩彦さんですね。1986(昭和61)年入社、甲府支局に配属されました。新聞記者にもいろんなタイプの人がいますが、隈元さんはどんな印象ですか? 

クマちゃんこと隈元浩彦君は、昔気質の新聞記者で正義感あふれる人なんだなあ。背も高く、フレームの太いメガネに口ひげ、一見すれば怖いような印象があるんだけど、なんか憎めない、クマちゃんには何か頼んでも「やりましょう!」と断ったためしがないんですよ。

仁義に厚いというか、ぼくが上下巻千ページを越える『封印された殉教』(2018年フリープレス社刊)を書いた原稿を隔月刊の雑誌「福音と社会」に2010年から8年間、連載中、毎回原稿用紙で50枚近くの原稿を事前に読んでもらってチェックしてもらいました。あの膨大な原稿を・・・、それも無償で!毎日新聞夕刊改革の編集長、朝刊の一面、三面を通した「人」にスポットを当てた「ストーリー」の編集長、という激務の中で、引き受けてくれた。本当に足を向けて寝れないな。  支局長権限を逸脱しているね(笑)。

2018年8月、10月、フリープレス刊

新聞記者にはメインストリートを歩くのが好きな人と、裏通りを歩くのが好きな人がいる気がします。具体的いうと、前者は政治部で官邸で時の首相と親しくなったり、経済部で大会社の社長などと仲良くなって、一面トップの特ダネを連発して「どうだ!スゴイだろう」と胸を張るというようなタイプ。それはそれでいいんだけど、裏通りの人というのは社会部なんかで特に検察だとか警察なんかを担当しても、居心地のよさを感じず、差別問題、ハンセン病だとか、いまならヤングケアラーとか幼児虐待・自殺問題、教育現場のいじめなどについて、名もない市井の人の側に立って取材をして、その記事が世の中の役に立って政府を動かしたりすることもある。クマちゃんはどっちかというと、後者のタイプだったと思います。  

Q.甲府支局での隈元さんはどうだったのですか?

クマちゃんは、支局時代かなりあわてんぼうの印象で、支局の隣の甲府警察署から2階の支局にドタドタドタとあがってくるんです。銭形平次のがらっぱちの八五郎みたいなもんで、「親分たいへんだ、たいへんだ!」って。でもね、すごく素直な人です。彼はデスクの秋山壮一さんに全幅の信頼を置いていましたね。ややこしいことでも引き受けちゃうタイプで人がいい。これはむずかしいよねえ、ということでもクマちゃんは「やりましょうよ」っていう感じでした。先輩には滝野松木記者(第24回、25回参照)というアクの強い、優秀な記者がいて、その中でいちばん若くて強くは言えないんだけど・・・、何とか食らいついて行こうというガッツがあったなあ。 

今回クマちゃんからもらったメールの引用です――。

>>>松木さんキャップ、小生兵隊時代、死刑事件は2つありました。じゃぱゆきさん(注:石和温泉にいたフィリピンからの出稼ぎ女性)放火殺人事件、春日居(石和温泉の隣町)連続殺人。松木さんは地元・石和を取り仕切る有名なヤクザに直接取材をしているところを、喫茶店のガラス越しに目撃したこともあります。そういう最中、秋山(壮一・デスク)さんに連れられて深夜、小さな殺人事件の現場に行きました。「現場百遍」という言葉を教えてくれました。秋山デスクと着任間もない頃、一緒に昼飯を食べました。(滝野、松木先輩記者にしごかれて)オロオロしているのを見るに見かねたのでしょう。「いいか、新聞記者は、人間が良くても、ネタを取ってこないと生きていけないんだ」 目の前のサンマ定食の塩っ辛く、苦いこと。いまも舌が覚えています。<<< 

まさに「新聞記者は、人間がよくても、ネタを取ってこないと生きていけないんだ」という秋山デスクの指摘はズバリ、“ネズミ捕らない猫”はダメなんだよね。でも僕が知らないところで、秋山デスクは、きちんとクマちゃんたちを育てていてくれたんだなあ、とつくづく思います。クマちゃんと秋山デスクのやり取り、ホントありがたい話だなあ。二人が向き合ってサンマ定食を食べているところを思い浮かべると、なんかウルウル来そうになります。 

でもこの話、松木健君(現毎日新聞社社長、前回参照)に送ったら---、以下の返事が来ました。

>>>隈ちゃん、勘弁してください。私が県警キャップみたいな顔をしていられたのは、すべて隈元さんのお蔭です。富士吉田の汚職だって、隈ちゃんの丁寧・丹念な取材があったからこそ原稿を出せたし、じゃぱゆきさんの放火殺人も、結局は事件とは全然関係ないヤクザに話を聞いただけで何の役にも立ってないし。甲府時代で憶えていることといえば、厚生省から県健康増進課長として出向してきていた烏帽子田彰さん(注・現新潟県上越市の川室記念病院院長、元広島大学医学部教授)と日の高いうちから温泉に行って、飲んだくれていたことぐらいです。佐々木さん、ふざけた兵隊ですみませんでした!!<<<  

いいなあ、往時茫々、今となれば、みんな謙虚だね(笑)。 

◇オウム事件に出くわす

Q.佐々木さんからいただいた明治大学の広報誌「The Quarterly Meiji」のインタビュー記事を読みました。隈元さんは明治のご出身なんですね。「この人に聞く」という企画に登場して新聞社時代のことについて話されています。これを読むとジャーナリズム論としても参考になります。 

「今やメディアが疑われてしまう時代。信用どころか憎悪の対象になりつつあるというのが、僕が入社した30数年前と比べ劇的に変わった点です。“私たちが情報を伝えるんだ”という独善的な姿勢がメディアに対する信用失墜にいつながったと思います」

「The Quarterly Meiji」2020年10月号

 と率直にこれまでの新聞ジャーナリズムの反省を述べられていて、好感が持てました。2016年から2年間、慶応大学のメディア・コミュニケーション研究所で講師もやられているんですね。なるほどと思いました。ただし、実際にはデータで見ると、今でも新聞への信頼は高いですし、あまり自虐的にならないでほしいと私は思います。

クマちゃんは、ぼくが東京の経済部のデスクになる1988(昭和63)年の3年後に東京本社の社会部に上がり、警視庁の捜査一課、捜査三課(窃盗、詐欺犯罪担当)になります。ほとんど会社で顔を合わせることはなかったですが、クマちゃん、ここでエライ事件に出くわすんです。「警視庁140年の歴史の中での十大事件」一位とされている“オウム真理教事件“に出会ったのです。 

注)オウム事件・・・カルト教団「オウム真理教」が引き起こした1989年の坂本弁護士一家3人殺害事件、1994年サリンを散布し計7人の死者を出した長野県松本サリン事件、翌年の都内での死者7人を出した地下鉄サリン事件などをいう。2018年教団幹部13人、死刑執行。 

このインタビューの中でクマちゃんは「(オウム事件当時の警視庁記者クラブでの)他社との取材競争は大変激しく、翌日の朝刊1面でスクープを抜かれた時『本当に消えてなくなりたい』という深い敗北感を味わいました」といっているんですよね。クマちゃんはオウム真理教のサリン工場が山梨県の富士五湖に近い上九一色村にあったので、甲府時代の土地勘、山梨県警とのつがりもあって、かなりスクープを放ったと思うけど、松木君がいうように、絶対自分から自慢するようなことは、甲府支局当時から言わないんです。 

毎日新聞社会部編、1995年10月5日、毎日新聞社刊
隈元浩彦記者はオウムによって「毎日の『三悪人』」と名指しされた一人とある。

◇新雑誌挫折 雑誌ジャーナリズムで苦闘

Q.隈元さんはその後、出版局に移り「ヘミングウェイ」という雑誌を出していた時期があって、隈元さんが編集長だったのですね。今回、経歴を拝見してはじめて知りました。私は、「サンデー毎日」よりもよく買っていた(笑)という記憶なんですが、隈元さんによれば半年で休刊になってしまったのですね。そのことを次のように語っています。(注:2001年創刊)

 >>>>作家の浅田次郎さんに連載をしていただいていて、「自分が連載して休刊になったの初めてだ」と言われました。「やるべき事を最大限やったならば、あなたのコンプレックスにならない。やらずして休刊だったら、これはあなたの一生のコンプレックスだよ」と。・・・浅田さんからいただいた言葉は宝物です。(「The Quarterly Meiji」2022年10月号)<<< 

この言葉を聞いて浅田さんの前で大粒の涙を流したというんだな。辛かっただろうなクマちゃん。 こういうところが事実上の倒産を経験している貧乏会社の情けないところで、最初の発刊の発想はいいんだけど、“金食い虫”と烙印を押されると、我慢して育てていく資本力がともなわないんだね。アマゾンで最終号を取り寄せて読んで見たけど、「マガジンハウス」社発行の知的な流行に敏感な若い人向けの「BRUTUS」を、古地図をつけたり中年以降の知的好奇心の強い人をターゲットにした、「ゆとり趣味生活情報誌」と銘打っている面白い雑誌なんだけど、いくら何でも半年で休刊はないよね。出した以上最低でも2,3年は頑張らないと---。

 実は、クマちゃん、その前の1995年から「サンデー毎日」の編集部で週刊誌記者を経て、ジャ―ナリストとして花開くんです。その仕事ぶりを認められて「ヘミングウェー」の編集長に抜擢されるんだけど、人のよいクマちゃん、編集後記で「断腸の思いです」とかいているが、可哀そうだよね。でもよい経験だったんじゃないかな。 

「ヘミングウェイ」2002年3月21日号の表紙と付録(1939年発行の世界地図)、関連記事(中須賀哲朗氏) ※筆者(校條諭)がたまたま所蔵していたことが今回判明しました。
「ヘミングウェイ」の付録 縦62cm、横54cm

Q.隈元さんは「サンデー毎日」記者時代、M資金問題、冤罪事件などを取材されていたそうですね。 

いやあ、この前、NHKBSの2018年5月放映の「アナザーストーリーズ『M資金の伝説―日本軍の財宝を語る』」という番組に、クマちゃんが出ずっぱりで出ているという話を聞いて、アーカイブで見たんですよ。M資金というのは、戦後、進駐軍が数兆円の旧日本軍の隠匿資金を管理している―という信ぴょう性のありそうでない話、「この金を融資します」という詐欺グループが持ちまわり、消えては浮ぶ裏社会のネタなんですよね。この話に著名な財界人もコロリと騙されて、戦後、何人も辞任に追い込まれています。

 正統派の記者はあまり追わないんだけど、クマちゃんはこれを追いかけるんです。書斎から何冊もスクラップブックをもってくる姿が番組には出てきましたが、クマちゃんらしいなと思って見てました。ぼくもどちらかというと正統派の取材ではなく、経済部ではエネルギー担当記者時代、正統派の経済記者はあまり付き合わない、右翼のフィクサーといわれた田中清玄などに食い込んで取材をしていたことがあります。そういうところクマちゃんを見て親近感を覚えましたよ。ぼくと似ているところあるなあと。 

クマちゃんはこの時期「サンデー毎日」で連載した、「『死後の世界』の研究」(1997年毎日新聞社刊)、日本人の源流を探る「私たちはどこから来たか  日本人を科学する」(1998年同社刊)を相次いで出しています。新聞の本紙ではまったく扱わないテーマを取り上げていますが、幅を広げたんじゃないかな。本人は「オカルト記者!といわれるんじゃないかな?」とぼやいていましたが⋯⋯(笑)。 

「『死後の世界』の研究」(1997年毎日新聞社刊)、日本人の源流を探る「私たちはどこから来たか  日本人を科学する」(1998年同社刊、のちに新潮OH!文庫)、雑誌「ヘミングウェイ」(隈元浩彦編集長) <写真は佐々木宏人さんの蔵書を同氏が撮影>

◇新聞と週刊誌でルポなど長文記事追求

Q.隈元さんはその後、夕刊のニュース中心から読み物を柱とする改革に取り組む夕刊編集長、朝刊の一面、三面を使う大型企画「ストリー」の編集長などを経て、2018年から2年間「サンデー毎日」編集長をされたようですね。 

それまでの経験を生かして適任だったと思います。クマちゃんは基本的にヒューマンで「人」が好きなんだと思うんですよ。月光仮面の作者・川内康範の、2歳で別れて今は大阪で弁護士になっている息子のことを書いた「ストーリー」の話など、どこでこんな話を仕入れるんだろうと思うほど、面白かったな。その一方でクマちゃんは志賀直哉の「正義派」という短編小説が好きなんだそうです。「路面電車にひかれた女の子は悪くない」、敢然と一人「運転手が悪い」と証言する線路工夫。クマちゃんは「『おかしいものはおかしい』と正しく言うことが、よりよい社会に役立つのではないか」インタビューで話しています。

注)「一時代築いた川内康範の素顔」・・・隈元浩彦記者が執筆、毎日新聞2020年9月6日付。6000字級の大型企画「ストーリー」のひとつとして載った。

 クマちゃんはこのスタンスで「サンデー毎日」の編集をしたんだと思います。だからジャーナリストの下山進さんのああいう連載だとか、保阪正康さんの昭和史関連の連載だとか、ある意味でリベラルでクールなものの見方をする人と相性が良かったんじゃないかな。保坂正康さんにはクマちゃんの紹介でお目にかかり、ぼくの書いていたノンフィクション『封印された殉教』についてアドバイスをもらいました。ありがたかったなあ。 

注:下山進さんは「サンデー毎日」で「2050年のメディア」を113回連載、その後「週刊朝日」に引っ越して連載を続けている。 

.支局にいたときに何かそういう例はありますか? 

甲府で彼がどういう人とつき合ったのかは知らなかったけど、きっと山田(正治)さんがつき合った人なんかとかなり交流を持ったのだろうと思います。山田さんというのは、前回書きましたが、地域で文化活動とかアーティストとか、普通の紙面では登場しないような人をよく取り上げて書いた人です。県庁だとか 横断的な会を作って、メンバーとして仲良くなって原稿を書いたりしていました。そういう意味で、ぼくは山田さんの影響もあると感じています。

 Q.サンデー毎日の編集長を2年間やった経験をもとに、同じインタビューで隈元さんは、次のように語っています。 

>>>>週刊誌の命脈はスクープだと思っていますが・・・・・・雑誌が得意としてきたルポルタージュの退潮に対する危機感を感じながら、読み応えのあるルポ・評論をお届けしたいという思いで、何事にもとらわれない自由な精神を持つ一芸の人たちが集う「アジール」、統治権力ですら及ばない自由領域のような紙面を志してきました。<<<

フランス語の「アジール」なんて洒落たこと言うね、クマちゃん!隈元君はサンデー毎日の編集長を最後に、定年でやめて、本来、彼は社会部の石戸さん(注:石戸諭氏。現在ノンフィクションライター)のように、いろんな形で活躍するんじゃないかなと思ってたんだけど、いま埼玉県熊谷市の支局、といっても支局長と彼との二人だけの支局のようだけど。定年後採用のような形で。彼は生涯一記者というポジションを絶対くずしたくないという感じなんだろうな。彼の人脈から言ったら下山進さんとか保阪正康さんとか豊富な人脈を持っているんだから、もったいない気もするけど。生涯一記者、われわれの頃の言い方で言えば通信部の記者として活躍している。 

クマちゃんからのメールにはこんな風に書かれていました。

>>>>いま、熊谷の地で新聞記者をさせていただいています。
「走りながら考えろ」
甲府支局の諸先輩、秋山さんの教えでした。
野球取材の帰途、私がハンドルを握り、助手席に松木さん。
「ボケーッとハンドルを握っているのではなく、頭の中で原稿を組み立てろ」
その言葉はいまも私の指針です。
悠々として急げ……。
立ち止まって考えることも必要でしょうが、私の性には「走りながら……」が合っているようです。<<<

普通は支局長を定年で辞めたような人がやるんだけど、彼の場合はサンデー毎日の編集長、それこそ時の総理の宇野宗佑の女性スキャンダルを暴いた鳥越俊太郎、オウム事件を追及した牧太郎だとかという名物編集長を生んだ「サンデー毎日」の編集長、生涯一記者としてやるんだというんです。えらいと思うね。 

でも最近の彼の書いた原稿を読むと、こんなことを言っては何なんだけど「埼玉版」にはもったいないようなコクのあるいい原稿書いているんだなあ。例えば女子高校生が埼玉県狭山市で殺され、犯人として逮捕、31年間服役した石川一雄さん(83)の再審請求の訴えや、熊谷市に帰ってきたドキュメンタリー映画監督の代島治彦さん(64)の新作「内ゲバの時代」を取り上げて書いています。新聞記者根性が座っているという感じ。でもうれしいね。

↑記事をクリックすると毎日新聞デジタルの記事が開きます。
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◇“日本一の支局”はどのようにして成ったのか

Q. 滝野さん、松木さん、隈元さん以外に記者がいて、通信部もあって、販売店、広告社との関係もあるわけで、それはそれで管理能力が支局長として、問われるのではないですか。 

そうね、支局の原稿は全部、秋山君に任せて、時々、販売店広告社などに顔を出してご機嫌伺い、という感じかな。支局では週1回か、月曜の夜だったかに部会をやるんです。その内、月に一回は富士吉田、大月、韮崎などにある通信部主任にも来てもらって開きました。そうそう忘れてならないのがコロナ前に亡くなった通称コバちゃん・小林富徳さん、以前、支局の運転手さんをやっていて、マイカー時代になり記者各自がクルマを持つようになって、特別嘱託で山梨市の駐在という形で支局にいました。事件・事故に強く、「おまん、なんでそんだこんやってんだか!」と“甲州弁”で若い記者を叱り飛ばしていました。 

その部会で県政の状況、警察の事件捜査の進展具合、など談論風発。ぼくから見れば、くちばしの青い記者が何か言うと、おお、それおもしろいじゃないかとか・・・。デスクの秋山君がこういう企画がいいんじゃないかとか言うわけです。夏だったら、たとえばリゾート地の清里高原や、富士五湖の写真企画“山梨の夏”とか。もちろんゴミ問題、湖が汚れてきたとか社会性は盛らなくてはいけないわけです。飲みながら話していると、若い記者たちが清里にはミュージシャンのライブがある、富士五湖には東京から移住してきたこんな人たちがいる―とかのアイデアが出るんです。コバちゃん、写真が上手いんで「写真はオレに任せろ」といったり、面白かったなあ。 

Q.すると、若手だろうがみなさん自由に発言したということですか? 

そうですね。それとあとは飲みながら歓談という感じになります。女房がときには、つまみを差し入れたりとか、パンチャーさんにつまみを買ってきてもらうとか。それが終わると、連中は2,3人で連れだって、歩いて5,6分の裏春日っていう飲み屋街に繰り出すんです。100軒か200軒くらい並んでいるんです。ぼくが留守番を買って出て、秋山君にも行ってもらったこともあるなあ。

Q.行きつけのところがあるんですね? 

そうそう。支局長と一緒なんて煙たがられるから(笑)、磯寿司っていうお寿司屋さんがあって、ぼくはだいたいそこに行ってました。そこに知事から何からみんな来るんですね。磯寿司の親父はなかなか気っぷのいい人で、その親父に紹介してもらっていろんな人と知り合いました。UTY(テレビ山梨)の社長とか、近所の大病院の院長、建設会社の社長、市会議員とか。それはそれで取材で役に立ちますからね。 

隈元君から今回もらったメールにこんなことが書いてあったんですよ。 

>>>>「甲府支局、『日本一の支局』でした。この言葉は、松木さんからの受け売りです。私が着任したその日に、話してくれました。やはり佐々木さんと秋山さんのコンビは最強でした。田中角栄に二階堂官房長官のような組み合わせだったかと思います。」<<< 

少し大げさだよね。クマちゃんも滝野君、松木君も出世なんてのは、あまり眼中にない記者だったと思うんです。ぼくがこういうすぐれた記者に出会ったことは、自分の財産だと思ってます。クマちゃんなんか、ぼくの本の原稿を全部読んでチェックしてくれて、本当は頭下げなくちゃいけないんです。昔の支局長権限でいばってるだけで・・・(笑)。

 松木君の「甲府支局は日本一」という言葉、感激です。そう見ていたんだ。ありがたい限りです。それに、亡き秋山さんの、若い記者を育てようという影の苦労に触れて、少し涙目だね(笑)。 ホント優れたデスクだったんだ。そういう支局から飛び立って、それぞれが大きく羽ばたいて眩しい限りです。なんか「我が人生に悔いなし」という感じになりました。 

◇甲府生活が長編『封印された殉教』への取り組みを生んだ

Q.一方、このインタビューのきっかけになったのは、私が「毎日メディアカフェ」で、佐々木さんの講演を聞いたことでした。2018年に刊行されたノンフィクション『封印された殉教』のことを話されましたね。その主人公に佐々木さんが出会ったのも甲府だったということですね。

そうなんです。そう考えるとぼくの毎日新聞退社後の方向性を決めてくれたのも甲府、とういうことになるなあ。 

Q.どういう出会いだったんですか? 

女房がたまたまカトリック信者だったんですが、毎週日曜日、甲府カトリック教会のミサに小学校3年の男の子を筆頭に、子供4人連れて行っていたんですね。ところがこの“宗教二世”(笑)一筋縄でいかないんで、ミサの祈りの際の祈りの言葉「天にまします我らが主よ」と唱えるところに来ると、大声で「なんみょうほれんげきょう(南無妙法蓮華経)!」と言ったりするんですね(笑)。しょうがなくて口封じ役で、ボクも一緒にミサについて行きました。 

Q.佐々木さんは元々カトリック信者ではなかったのですか? 

そうです。もっとも母の妹の結婚相手が舟越保武という彫刻家で、長崎の「日本二十六聖人殉教の記念碑」などを制作した敬虔なカトリック信者、一家そろってカトリックでした。ぼくは子供の頃から世田谷の経堂の家に遊びに行っていたので、カトリック教会には違和感はなかったんです。

 甲府教会に通ううち、ミサ終了後に聖堂わきの信者会館に行くと、山梨県出身の神父の肖像写真が天井近くの壁に掛かっていたんです。そこにメガネをかけた「戸田帯刀」という、ローマンカラーを付けた神父の肖像があったんです。「帯刀(たてわき)」なんて珍しい名前だなと思って記憶に残っていたんです。そうしたらたまたまその年、「山梨県カトリック宣教百年誌」というのが発刊されました。それをめくっていると、甲府から車で小一時間の東山梨郡牧丘町(現・山梨市牧丘町)出身の横浜教区長・戸田帯刀神父が、終戦3日後の1945(昭和20)年8月18日午後に横浜の保土ヶ谷教会で射殺されたと書いてあるんですね。それも戦時中、「治安維持法違反で特高にも逮捕されたことがある神父」、「憲兵に射殺された」というんですね。「いやあ、すごい事件があるんだ」と思いましたね。 

カトリック内で有名な事件なのかと、甲府教会の人に聞いてみると、誰も知らないんです。それで興味を持ってボチボチ調べ始めて、新聞社を退職してから本格的に北海道から九州まで取材旅行をしながら、カトリック系の隔月刊の雑誌「福音と社会」に2010年から連載を始めて48回、2018年8月に上下巻でフリープレス社から出版にこぎつけました。  

考えてみればこのオーラルヒストリーも、戸田神父を仲立ちとした、甲府つながりなんだよね。人生終盤のフルーツを甲府支局は、与えてくれたと思います。感謝したいな。(第26回終わり)