国力低下と正の相関があるのではと思っている「書店減少」。読書を否定して未来があると思う人は、その根拠を問う時期では?【福岡市の繁華街「天神地下街」から消えた書店】
福岡市最大の繫華街、天神地区。多くの買い物客でにぎわう天神地下街は、その一角であり、地下鉄空港線、七隈線と接続する利便性の高さから、150もの店が連なる九州最大の地下街でもあります。
そんな天神地下街に最後に残った書店が8月閉店しました。地元のテレビ局が福岡の書店事情を紹介していますが、これは全国的な動きと同じでしょう。
このレポートで紹介されていた1990年後半の「ブック戦争」の口火をきったのは、「ジュンク堂書店」の進出や「丸善」の天神地区への本格進出でした。
本をじっくり探すなら、天神へというのは、当時の「常識」でもありました。
今、そのような動きをしている人は、ほとんどいないでしょう。私も本を求めて天神に行くことはありません。
そのころから本が売れないのは、徐々に深刻になっていきました。
事実、電車でもバスでも本を読んでいる人はほぼ皆無。いても高齢者しかいません。
そして、そのころから登場したのは、読書のオワコン説でもありました。
恐らくそのような主張をされる方は、普段から本を読まれないのでしょう。
それはそれで、個人の嗜好なのですから、否定されることではありません。
個の問題なのですから、お好きにすればいいと思います。
ただ、別の視点として、本を読まなくなった国の国力はどうなのかという問題は持っておいてしかるべきではないかなとも思うのです。
世界のどこかに、「市民が本を熱心に読む国」と「市民がほとんど本を読まない国」があるとして、どちらが発展しそうかを考えてみてはいかがでしょうか。
後者こそが発展する!とおっしゃるのであれば、その根拠は考えてしかるべきでしょう。
私は国力と「書店数」は、正の相関があると思っています。
人間は言葉によって思考するものである限り、その言葉の裾野を広げるという意味だけをとっても読書をしておくことはとても意味があると信じています。
事実、ジョージ・オーウェルの『1984』の巻末で列記されているニュースピークの部分こそ、人間が言葉によって思考することを証明していると思っています。
言葉を刈り込まれることで、人間は思考の幅を狭められ、大衆は、強大な権力に「包摂されていく」。オーウェルは、それが人間が幸福に感じるとさえ言い切っている。
一方で、人間の英知を後世に引き継ぐという点でも、読書の文化は守らないといけないとも思っています。
岩波書店やみすず書房が経営を持続できなくなれば、この国の教養は瓦解することでしょう。
教養?そんなものがIT時代に何の役に立つのだ。読書はオワコンなんだよ。
という説を信じておられるなら、その根拠をご自分の「言葉」で表現されてはいかがでしょう。
できますか?
それを持ってしても、言葉は必要なのです。そして、その思考を構成する言葉は、本以外のテキストから得られることなど不可能ではないかなと私は思います。
YouTubeのインフルエンサーの言葉から獲得できるのは、感情を揺さぶる言葉だけです。それで、思考が発展するというのであれば、それを示すことが必要ではと思います。
書店経営が維持できないのは、時代の流れだというのも、マーケット的には正しい「リクツ」ですが、それで社会のすべてが説明できるものでもない。
いろんな意味で、言葉を成熟させることはとても大事なことではないかなと思います。
そのためには、読書を継続する習慣が必要だと思います。