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偏差値は、道具である限りにおいて、無害であるけれど・・・(1)【偏差値(教育)批判は、正しくもあり、的外れでもあると思う理由】

偏差値は、ただのデータです。これは厳然たる事実です。日本人の身長のデータを集めて、偏差値を作ることもできます。
男性であれば、身長が190cm以上の人は高偏差値であり、150cm以下の人は低偏差値となるでしょう。そこに意味はなく、単なるデータの結果でしかありません。

しかし、身長のデータも、意味を付加すると偏差値は、違った景色になります。
例えば、バレーボールやバスケットボールの選手という意味を付加すると、高偏差値となる高身長の人に高い価値が生まれます。一方で、競馬のジョッキーという点になると逆に低偏差値となる低身長の人に高い価値が生まれます。

つまり、偏差値はそれをどのように意味づけをするかによって存在は変化します。

大学受験や高校受験になると、偏差値が単なるデータであることを超えて、根強い批判にさらされることがあります。世間一般には、「偏差値教育」なるものがあるとされていますが、塾業界で働く私には、イマイチどころか、全くピンとこないものです。

この点について考えをまとめたいと思います。今回はその1回目です。

偏差値が生み出す序列は人間の脳の解釈

まず、偏差値の弊害として挙げられるのは、偏差値によって、序列化がされてしまうという指摘ですが、これは100%正しい主張です。

例えば、東京大学と一橋大学と東京工業大学とお茶の水女子大では、どの大学いい大学なのでしょう?
恐らく、正しい答えは、どれもいい大学となるのではと思います。この大学の卒業生の方は母校に誇りを持っておられることからも明らかです。

偏差値はここに数字的な序列を生み出します。偏差値がデータである限り、それは宿命的なことです。

しかし、それは本質的な序列でないこともまた、事実でしょう。

これを序列と見るか、単なる数値的分布と見るかは、データに触れた人間の作用、もっと言えば、人間の脳のはたらきといえるのではと思います。

「私は、お茶の水女子大が第一志望なので、東京大学より偏差値が低くてよかった」という解釈も当然起こります。

「東大生の自分は、日本で最も優秀な学生だ」というのも単なる解釈の問題です。優秀であることの指標は、偏差値だけではありませんし、そもそも優秀であることそのものが指標の一つに過ぎません。

偏差値を無視する受験生の存在

志望の大学よりも高い偏差値を得た受験生は、選択の自由を得ます。
医学部を目指す受験生に顕著ですが、彼らの高い関心は、「確実に合格できるか」であり、可能な限り高い偏差値の大学(医学部)に行くことではありません。
これまで、いろんな受験生を見てきましたが、偏差値によって行動を変える場合は、数字的に届かない場合が大半であり、そうでない場合、つまり偏差値的に志望とのミスマッチが起こっていないのであれば、彼らは必ずしも偏差値に従うわけではありません。

偏差値批判でよくあることとして、大学の序列化を指摘する声がありますが、偏差値は大学を序列化していることは間違いないので、その批判は正しいと言えると思っています。

しかし、それに受験生が従うというわけではないものも事実ではと思います。彼らは、職業選択であったり、学びの価値観によって大学選んでおり、偏差値の高低が大学選びの存在としては、そこまで大きくはないのではと思っています。

目標があれば、偏差値はただの道具

そのような行動をとる受験生において、偏差値は、ある程度の目安を提示してくれる便利な道具なのかもしれません。偏差値を基準に、自分が合格可能性の高い学力を得たと感じた受験生は、あとは過去問対策などを重視して行動しています。そもそもそれまでの勉強であっても、彼らは偏差値を少しでも上げようというモチベーションでは勉強していません。

そんな彼ら行動をみて、偏差値は問題であるとか、偏差値教育の弊害(偏差値教育というものがあればの話ですが)とかを主張する方を見ると、ちょっと違うのではと感じます。

偏差値批判は視点によっては正しい

私は偏差値そのものは、単なるデータであり、道具であるとしか「思って」いません。それは本質的な話ではなく、「私がそう思うから」だとも思っています。

つまり、偏差値が生み出す弊害は問題だと「思う」人にとって、偏差値は害悪であることも、それは真実だとも思います。偏差値批判は、概ねカースト化によって生じる問題だからです。

偏差値は、まさにカースト化を生み出す装置であることは、疑う余地のない事実であり、高い偏差値の大学に合格したことによって、選民意識を持つ人が出ることは避けられません。偏差値批判はその意味において正しく、視点によっては、害悪であることは理解できるところでもあります。

最近でも、関西の医大生や名門私立大学の運動部の学生が性犯罪を犯していますが、背景に序列意識があったのかなと思っています。
姫野カオルコさんの小説『彼女は頭が悪いから』の着想の原点となった東大生の事件の問題は、偏差値によるカースト化の弊害を示唆しているのではと思っています。

話を戻すと、偏差値は単なるデータであり、道具であることもまた事実です。データに色はありませんが、人間がどのように解釈するかによって色は出てしまいます。偏差値もその一つでしょう。

その意味において、偏差値批判は正しくもあり、的外れでもあるのかなと思っています。


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