テレビは、なぜ『ドラえもん』の大成功と失敗から学べなかったか【脚本と脚色を分けることの契機に】
『セクシー田中さん』問題の余波が私の中で続いています。続報が次々に出てくるという事情があるのでしょうが、私の仕事が、「問題を解決する」ことだからかもしれません。
TBSの情報番組『情報7days ニュースキャスター』で、三谷幸喜さんが、コメントされていたようですが、問題の本質に、日本のテレビドラマにおいて、脚本と脚色が業務としてはっきりと分けられていないという問題も大きいのかなと感じています。
三谷さんのご発言の文字起こしがこちら。
私は、これを機会に、脚本と脚色は、作業として明確に分けるべきではないかなと思います。
実は地味ながらNHKはそれをやっています。
また、脚本家の養成学校でも、それはきちんと意識しているようです。
現在は、脚本家という仕事の中に、蛭田さんのおっしゃるように
「イチから考えたオリジナルのもの」である脚本と
「小説やマンガなど原作をもとにアレンジしたもの」である脚色が
混じっている。
さらに、今回の『セクシー田中さん』でクローズアップされたように、本来は脚色ベースであるべきなのに、原作者からすれば、勝手に「脚本のような要素をぶっこまれた」となれば、ハレーションが起こるのは当然ともいえます。
脚本家さんとしても、線引きが明確でないために、業務が混在している場合もあるでしょうし、脚本、脚色のそれぞれのスキルが向上しないという問題もあるのではと思います。
その背景には、テレビの側が、原作に手を加えることへのリスク意識が低いこともあるのでしょう。
そう思うと、国民的アニメ『ドラえもん』の大成功と失敗から学んでいないのではないかと感じます。
スタジオジブリの高畑勲監督が、「原作をそのままやるべきだ」という眼力が、国民的な大ヒットアニメを生み出し、日本テレビ版の大失敗により、アニメ化に慎重だった藤子・F・不二雄先生をも納得させることができた点は、テレビの人たちには、心に刻むべきケーススタディではないかなと思います。
まずは、脚色という概念を広めることは結構重要なのではないかなと思います。脚色という仕事は何かが明確になっていないことも、「原作クラッシャー」という誰も幸せにならないレッテルを生み出しているのであれば、この悲劇を機会にテレビの人たちは考えを深めてほしいと思います。
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