総合型選抜入試と時代のトレンド【自分を「深堀り」できると思う思考への違和感】
神戸女学院大学名誉教授で、思想家の内田樹(たつる)先生の記事を拝読。
これを通じて、総合型選抜入試について書いてみます。
近年、この傾向は社会のあちらこちらに見られています。
テレビ朝日系バラエティー番組『アメトーーク!』は、20年を超える長寿番組ですが、昔はいろんな企画をやっていたように思いますが、最近は、家電量販店芸人といったニッチなこだわりをアピールするトーク番組になった印象があります(毎週観ているわけではないので、違っていたらごめんなさい)。
どこで話されていたか忘れましたが、伊集院光さんは、若手芸人さんから世の中に出ていくためにどんなジャンルの知識を得ておくべきか相談されることがあるとおっしゃっていたように思います。
このような、内田先生のおっしゃる「狭くて深い知」は、「深堀り」として、共通理解がされており、時代のトレンドなのだと私も感じているところです。
前々から、総合型選抜入試への違和感を持っていました。それは一言で言い表せるような単純なものではなく、いくつかの要素から成り立っています。
こちらもその一つですが、実は上記の記事を書いた後、これで違和感から解放されるのかなと思っていましたが、そうはなりませんでした。
違和感は、まだあるということなのだろうと思っていました。
それが、今回内田先生の記事を拝見して、なるほど!と思った次第です。
総合型選抜入試への違和感は、この「深堀り」への違和感でもあるんだと気づきました。
すると、案の定というか、「深堀り」が一つのキーワードとして浮かんできます。合格された方もこの「深堀り」が重要なのだと感じておられるようです。
正直、違和感として大きいのは、自分が同じ年齢の時に、ここまで自分の人生の方向性を限定することなど「不可能」だったように思うからでしょう。
もちろん、インターネットもなく情報を集めるのが困難だったとはいうものの、学部の限定であったり、将来の職業のイメージを持つ程度がせいぜいで、
「衣料廃棄問題」について、法律と絡めながら探究
とか、絶対にありえない。無理としか言いようがない。
また、大学に関する研究とか言われても、漠然と旧帝大とか早慶とかイメージ先行から入って、偏差値で妥協点を探るというスタンスでしかなく、それ以上のことができたとも思えません。
総合型選抜入試への違和感は、私のあの頃の未熟な(今が成熟であるという意味ではありません)と自分と照らし合わせても、そこまで出来ていたとは思えないからでしょう。
どうして、今の大人たちは、これが可能であると思えるのでしょう。この違和感がやっぱり大きいんだなと感じました。
自分の未熟さを棚に上げて、この違和感を指摘するのは、
自分が何者かある程度分かっているからできるのでは?
と思うからです。
情報化社会になれば、早く専門を決めれば、自分が何者かわかるのでしょうか?
私はそうは思えません。
内田先生は、このようも話しておられます。
一般入試を序列化だと批判する方がおられるますが、総合型選抜入試であっても、この社会構造に変化がない以上、五十歩百歩であるとしか思えません。
つまり、共通化した社会構造の下では、一般入試であれ、総合型選抜入試であれ、そこまでの差異を生むとは思えない。
ずーっと「同じフィールド」にいたんでしょう?
入試制度が多少変わったからといって、アウトプットがそんなに変わるものなのでしょうか。
ましてや、総合型選抜入試であれば、一般入試の問題が解決するというのは、随分と楽観的な思考ではないかと思います。
ガラパゴス化した入試数学が解けてマウントとることと、総合型選抜入試で「受かる専門分野」を開拓してマウントをとることと、どこに相違があるのでしょう。
若者に悩むことや迷うことを放棄させ、「自分はこういうことを大学でやりたいです!」と分かったような言動を強要することは、どこまで許されるのでしょうか。
それは、自分のことを「深堀り」せよ言っているのに等しいのでは?と思います。
そんなことがあの年齢でできるのでしょうか。少なくとも私には無理です。
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