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「MARCH」「大東亜帝国」への違和感はその通りだけれど・・・【茂木健一郎さんの主張に思うこと】

茂木健一郎さんは、教育、とりわけ受験については、極端な主張をされておられる印象があります。一般入試を廃止して、総合型選抜にしろという主張には、とても同意できません。
塾講師としての仕事がなくなるからという点は横においても、総合型選抜入試に「も」、いろいろ問題があると思うからです。

ただ、極端で過激な意見を主張することで、社会にインパクトを与えるという意義はあると思うので、いろいろ入試が動く時代には必要な視点を与えておられるかなと思います。

今回、↓のような発言があったようです。

私は理系担当ということもありますが、このような私立大学のグループ分けはあまりピンとこないところがあります。

茂木健一郎さんは、予備校業界「が」MARCHと呼んでいるとおっしゃっていますが、それはちょっと違うのかなと思います。

というのも、塾業界で仕事をしていると、このようなグループ分けを使うことはほとんどありません。理由は簡単で、そのような分け方に何の意味もないからです。

今の受験生は、偏差値はある程度の参考としてしか見ていません。行けそうな学校をある程度絞り込むと、資料を取り寄せたり、就職状況をみたり、場合によってはオープンキャンパスに参加したりして、志望を固めていきます。進学してもいい学校なのかを丁寧に調べています。自分の人生がかかっているのだから当たり前とも言えます。

そもそも、MARCHなどの呼び方はジャーナリズムが使っているという印象があります。つまり、「大人」が使い、「大人」が広め、「社会」が便利使いしていると思っています。

ウキペディアの情報をみてもそうかなという印象です。

『MARCH』という大学グループ名は、旺文社で長く受験情報誌の編纂に関わり、受験専門誌『螢雪時代』の編集長も務めた代田恭之が1960年代に考案したとされる。(中略)1980年代まで、「MARCH」がマスコミに登場することはほとんどなく、(中略)2000年代に入ってからは、「MARCH」がマスコミにも登場し始めるようになる。川上徹也の調査によれば、「MARCH」という総称が一般誌の見出しに登場するのは、『週刊朝日』2004年4月30日号が最初とされる。翌2005年は、『読売ウイークリー』や『サンデー毎日』でも「MARCH」という総称を使い始めるようになった。

そもそもこのような大学群をもてあそんできたきたのは、ジャーナリズムなどを中心とした社会のほうであり、この問題は予備校業界の問題ではないと思っています。

この手の動きは、個人的には、看過できないところがあり、何のためにやっているのか不思議に思います。最近は、↓のようになっていると喧伝しているようですが、私自身はガン無視しています。

茂木健一郎さんのおっしゃるように、このようなグループ分けには何の意味もないのはその通りです。しかし、それを予備校業界がメシのタネにして、マッチポンプで受験生や保護者を煽っているといわんばりの内容は、これもまた看過できない主張です。

問題は、これをありがたがっている社会のほうであって、これを予備校業界の責任とする主張は、正直迷惑な誤解でもあります。

予備校業界性悪説という先入観からなのでしょうが、もう少し調べてから、社会の動きを見つめた上で、発言をお願いしたいものです。

また、このようなグループ分けが求められているのは、大学の商品化であると思っています。私は、私立大を時に、ブランド大と表現していますが、社会において、大学が商品化していると思うからです。大学のブランド化を求める空気が社会にニーズとして存在していれば、当然にジャーナリズムは躍起になってランキング化します。それは、企業が学歴フィルターとしても使っていく動きにもつながっているのでしょう。

この大学のグループ分けの問題は社会の方にあります。入試とか予備校業とか原因を矮小化する動きには常々違和感があります。

この軽薄は風潮を「社会が」ありがっている現実こそがこの国を停滞させているのではないでしょうか。

このような識者の原因の矮小化は個人的には問題だと思っています。おっしゃるように世界はもっと広いと思うからです。

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