見出し画像

日曜日の本棚#40『虐殺器官』伊藤計劃(ハヤカワ文庫)【死神と伴走した彼だけが書くことが許さる「死」と早世した「罪」】

日曜日は、読書感想をUPしています。

前回はこちら。

今回は、伊藤計劃さんの『虐殺器官』です。若くして亡くなった作家の数少ない著作の一つです。

作品紹介(ハヤカワ文庫作品紹介より)

9・11以降の、“テロとの戦い"は転機を迎えていた。
先進諸国は徹底的な管理体制に移行してテロを一掃したが、後進諸国では内戦や大規模虐殺が急激に増加していた。
米軍大尉クラヴィス・シェパードは、その混乱の陰に常に存在が囁かれる謎の男、ジョン・ポールを追ってチェコへと向かう……
彼の目的とはいったいなにか? 大量殺戮を引き起こす“虐殺の器官"とは?

所感(ネタバレを含みます)

◆現代SFと伊藤計劃

現代SFがどうも苦手である。テッド・チャン『あなたの人生の物語』は、観念的過ぎて今一つピンとこなかった。それはまだいい。決定的な違和感となったのは、途中で挫折したウイリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』であり、映画の『ブレードランナー』だろうと思う(お好きな方には申し訳ない)。

「何かが違う」と思うのだが、その答えが出ないでいた。

そんなこともあり、SFは専ら「ほぼ古典」ばかり読んでいる。アーサー・C・クラークやロバート・A・ハインライン、フィリップ・K・ディック、レイ・ブラッドベリなどである。しかも、日本人作家にはなぜか触手が伸びない。

その意味で、現代SF×日本人作家という組み合わせなのに、私はこの作品に魅せられた。

それは、唯一の理由、伊藤計劃だからだろうと思う。

◆伊藤計劃だけは、「死」を奔放に描くことが許される
私の偏見として、SFは割と死を簡単に描く傾向があると思っている。一人の人間の命を奪うために必死に知恵を絞る犯人とそれを追う刑事・探偵という構造のミステリーは、むしろ命にそれなりに敬意を払っているとさえ思う。

しかし、SFは違う。テクノロジーの進化は、人間を相対的に価値を下げてしまうので、人の命は、軽視されるのがSFのリアリティになりがちである。
また、リアルの世界がそのようにシフトしていることもあり、それが間違いであるとは思わない。

本作も割と人が簡単に死ぬ。

しかし、描かれる「死」は、ちょっと違うと感じる。
その答えは、大森望さんが書かれたあとがきにあった。

作者は「職業:病人」と公言するほどの死と背中合わせの人生だったからである。彼は死神と人生を共に歩んだ存在だったのだ。

伊藤計劃の34歳の生涯は、あまりに短い。

本作で、休憩のために車を止めた若者が主人公の都合で、あっさりと殺されるが、そこに作者の存在を見てしまう。

「殺される側の若者」にである。

自分の命が特別ではないという自覚を感じるのだ。

彼だけは、どのように命を描いてもよいのではと感じる。寡作の作家として生涯を閉じた彼だけの特権なのではと思うのである。

◆俄然面白くなる後半と未来を予言した作者のある視点

あとがきによれば本作は、作者が一気に書き上げた作品とのこと。それは言い換えると綿密なプロットに基づく作品ではないのだろうと私は理解している。その影響もあるのか、前半はちょっと冗長的な展開だと感じる。

しかし、主人公クラヴィス・シェパートがテロリストであるジョン・ポールと接点を持ってから俄然面白くなる。

言語学者でもあるジョン・ポールは、虐殺には文法があるという。

研究を進めるうちにわたしには、人間がやりとりすることばの内に潜む、暴力の兆候が具体的に見えるようになったのだよ。もちろんそれは個人個人の会話のレベルで見えてくるものではない。(中略)この文法による言葉を長く聴き続けた人間の脳には、ある種の変化が発生する。とある価値判断に関わる脳の機能部位の活動が抑制されるのだ・・・」

この小説を発表したころにはなかったSNS時代を予言させる作者の重い指摘である。

これまで人類がコツコツと積み上げてきた、人権や平等の概念は、SNSによる「脳の機能部位の活動の抑制」によって、水泡に帰す可能性も出てきている。

そして、何より不気味なのは、その影響力の大きさである。

○○人は殺されてもいい、「サヨク」はこの国を滅ぼそうとしている・・・など物騒な書き込みはSNSだけの閉じた世界で済めばいいが、私はそのような楽観論にリアリティを感じていない。

政府が嘘を言っているわけじゃない。というより、政府は嘘を言っているし、メディアも嘘を言っているし、最悪なことに民衆も噓を言っているんだ。お互いがお互いに『追跡可能性(トレーサビリティ)』の嘘を信じあって、現在の社会が生まれたんだよ・・・

作者が存命だったころは活発化していなかったSNSの登場で、最後のピースとしての「民衆の発信」の環境が整った。作者の予言通り、「政府」「メディア」と合わせた三位一体によって、現代社会は形成されている。

すでに名もなき大衆の小さな声の集合体は、大衆の微細な投票の集積によってのみ生存を許される政治家に影響を与えている。

与党はしたたかにも、差別発言要員を準備し、その議員を通じて、差別主義者の得票を狙っている。
「建前」は、票にならないことをすでにリサーチ済みなのだろう。

現実は、パンクSFと呼ばれる世界よりもさらにディストピア感を強めているのかもしれない。

◆機能としての「良心」を維持する必要性

最後に、作者の至言ともいうべき、ジョン・ポールのセリフを紹介したい。

仕事だから。十九世紀の夜明けからこのかた、仕事だから仕方ないという言葉が虫も殺さぬ凡庸な人間たちから、どれだけの残虐さを引き出すことに成功したか、きみは知っているのかね。仕事だから、ナチはユダヤ人をガス室に送れた。仕事だから、東ドイツの国境警備隊は西への脱走者を射殺するとができた。仕事だから、仕事だから。(中略)
すべての仕事は、人間の良心を麻痺させるために存在するんだよ。資本主義とは宗教なのだよ。信仰の度合いにおいて、そこに明確な違いはない。そのことにみんな薄々気がついてはいるようだがね。誰もそれを直視したくはない

あまりに重く、重要な指摘であると思う。

このことを理解できていれば、資本主義というシステム・モンスターとの距離感は多少でも取れるのかもしれない。少なくともマルクスのいう「包摂」に飲み込まれず、多少の「抵抗」はできるのかもしれない。

そして、ジョン・ポールは、その抵抗に必要不可欠ものは、「良心」であるという。さらに、その良心は、メカニカルな機能によって定義づけられるともいう。

現代人は、「良心」や「誠実」などという言葉に、多少の差はあっても嫌悪感を持っている。私も例外ではない。しかし、これが重要でもあるという指摘は、少しずつ出てきてもいる。

それを大切にするか否かは人それぞれでいいとは思うが、本作によって、再度認識されたこともあり、私は是として今後も生きていきたいと改めて思った次第である。

それにしても、このような作品を遺した伊藤が早世したことは、残念でなららない。早すぎる死は、ある意味「罪」だったといえるのかもしれない。
彼には現代人に気づきを与える使命がもっとあったと思うからである。



いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集