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日曜日の本棚#番外編『注文の多い料理店』宮沢賢治【大人の視点で読むと違った世界となる宮沢賢治の偉大さ】

毎週日曜日は、読書感想をUPしています。

今回は特別編として、宮沢賢治の『注文の多い料理店』です。
現在は青空文庫で読めます。

国語の教科書で読んだ方も多い宮沢賢治の代表作ですが、読み返す機会があったので、読んでみたら印象が違って見えました。

そのこともあり、ちょっと記事にしています。

◆若いころには、重視できなかったある描写

冒頭を読んで驚いたのが、次の描写です。

それに、あんまり山が物凄ものすごいので、その白熊のような犬が、二疋いっしょにめまいを起こして、しばらく吠うなって、それから泡あわを吐はいて死んでしまいました。
「じつにぼくは、二千四百円の損害だ」と一人の紳士が、その犬の眼まぶたを、ちょっとかえしてみて言いました。
「ぼくは二千八百円の損害だ。」と、もひとりが、くやしそうに、あたまをまげて言いました。

 はじめの紳士は、すこし顔いろを悪くして、じっと、もひとりの紳士の、顔つきを見ながら云いました。

太字は筆者

猟のパートナーであるはずの犬たち。「紳士」たちは、それを経済的な側面でしか見ていません。

これには、ちょっと驚きでした。

こども時代のこととは言え、お恥ずかしい話、これを重要な描写とは感じることができませんでした。

◆紳士たちの勝手な解釈

そして、ご存じの通り、彼らは料理店を発見すると、中に入っていき、次々に注文に従って行動していきます。

これが大人となって読むと興味深い。

「こいつはどうだ、やっぱり世の中はうまくできてるねえ、きょう一日なんぎしたけれど、こんどはこんないいこともある。このうちは料理店だけれどもただでご馳走ちそうするんだぜ。」
「どうもそうらしい。決してご遠慮はありませんというのはその意味だ。」

えっ?タダと解釈するんですか?

「注文はずいぶん多いでしょうがどうか一々こらえて下さい。」
「これはぜんたいどういうんだ。」ひとりの紳士は顔をしかめました。
「うん、これはきっと注文があまり多くて支度したくが手間取るけれどもごめん下さいと斯こういうことだ。」

そこから次々と山猫軒の「注文」に従っていく紳士たち。

彼らがそうする背景には、やはり「ただ飯が食える」というのは大きいのかと思うと、子供のころには見えなかった視点だと感じました。

人間は一度思い込むとなかなか抜け出せない。単一の視点に思考が固定されると脱出は容易ではありません。詐欺師はそれをよく知っているので、カモを囲い込んでいくスキルをいくつも持っている。

現代でもいい大人が、勝手な解釈をして間違いを犯している。もちろん私もです。

「どうもおかしいぜ。」
「ぼくもおかしいとおもう。」
「沢山たくさんの注文というのは、向うがこっちへ注文してるんだよ。」
「だからさ、西洋料理店というのは、ぼくの考えるところでは、西洋料理を、来た人にたべさせるのではなくて、来た人を西洋料理にして、食べてやる家うちとこういうことなんだ。これは、その、つ、つ、つ、つまり、ぼ、ぼ、ぼくらが……。」がたがたがたがた、ふるえだしてもうものが言えませんでした。
「その、ぼ、ぼくらが、……うわあ。」がたがたがたがたふるえだして、もうものが言えませんでした。
「遁にげ……。」がたがたしながら一人の紳士はうしろの戸を押おそうとしましたが、どうです、戸はもう一分いちぶも動きませんでした

こうなったらあとの祭り。

大人の世界では、扉を開き、野獣の餌になってジ・エンドでしょう。
ポイントオブノーリターンは過ぎているのですから。

◆大人になると主客が入れ替わることで気づく宮沢賢治の偉大さ

読んでいくにつれて、感じたのは、紳士たちの存在が客体化していくことでしょう。

こどものころ、この作品が恐ろしかったのは、紳士たちと「私」が一体化することの恐ろしさでした。

まるで自分のことのように感じたものです。

でも、大人になると判断力が身につくので、そのようには読めなくなっている。

だからこそ、客体となっている主人公たちの思考のおかしさに気づく。

ダブルミーニングという言葉がありますが、一字一句全く同じ物語が、時空を超えると全く違った解釈になる。

そして、到達する心境は、宮沢賢治の偉大さです。

意図して本作を大人の寓話に仕立てとは思えませんので、結果としてそうなるということことなんでしょう。本質を見極めた良質の物語は、このような奥行きのあるものになるのだと実感しています。


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