保護者が開業医というのは、親ガチャの当たりなのか(2)【学びのすべてが手段と化す地獄】
開業医のお子さんの苦しみに焦点を当て、思うところを書いています。
5回シリーズの今回は2回目です。
前回はこちら。
今回は、開業医のお子さんで、医学部を目指している方に顕著に多い考え方について触れます。
それは、勉強のほぼすべてが医学部受験のための手段となっているということです。
英語であれ、数学であれ、物理であれ、化学であれ、すべての学びは医学部入試における手段でしかない。
望む、望まないに関係なく、結果としてそうなってしまっている方は本当に多いなと感じます。
ひと昔前であれば、それはそれでなんとか現実と折り合える思考だったと思いますが、今はそうではないというのが私の見方になります。
というのは、学力についての「新しい格差」が生じているのではないかと考えているからです。
その観点で↓の記事で書いています。
その点において、開業医のお子さんの中に、このようなパターンに当てはまるがそれなりにいる一方で、そうでない方は多数派であるというのは現実として存在します。
個人的には、多数を占める方々にとって、これは大変気の毒な現実ではないかと常々思っています。
というのも、私は学びというのは、そのものに意味や価値があると思うからです。
もちろん、現実には、学びにある特定の目的が存在したり、時に学びが手段になることはあり得ます。
ただ、そうであっても、学ぶことには、本質的に意味がある。これが学びの最大の価値であると思います。そして、増えつつある上位層はその価値を体得している。
何かを得るための手段であること、つまり、金銭を生み出すための手段であったり、社会的成功のための手段であるというのは、副次的なものだと思います。
その意味で、大リーグ・ロサンジェルスドジャースの大谷翔平選手は、時代を象徴していると思います。かれは、野球を極めることに最大の価値を置いていることは間違いない。
そこから派生することは、すべて「おまけ」でしかないことは彼の言動を分析すれば自明でもある。
しかし、医学部を目指すことを背負って生まれてきたともいえる開業医のお子さんは、学びそのものに意味があるという考え方は、これまた「きれいごと」としか映らないのでしょう。
そうであるならば、学びはすべて(医学部を行くための)手段と化す。
それが、いかに苛烈な現実であるか。
塾や塾講師など言うに及ばず、学校の先生も、医学部受験に通じる道すがらに出会う人の大半が自分の医学部受験のための駒のように見えているとしか思えない言動となっている方を見ると、本当に大変だなと感じます。
光が大きいと、その分影も大きくなる。
そのことは彼らの周囲にいる人間として理解しておきたいと思っています。
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