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私の価値観の変わり方

はじめに

お疲れ様です。ゼロカロリーです。

先日、感情論と論理について思うことをつらつらと書いた記事を公開いたしました。
個人的な価値観なので、人によって共感していただいたり、逆に否定的な感情を抱いたり、論理的におかしい! なんて意見もあるかもしれません。

いままで漠然と思っていたことを言語化してみた記事なので、興味あればぜひ読んでみてください。

そんな私のひとつの価値観を言語化してみたので、じゃあ今度は私の価値観がどんな風に変わっていっているか? というのを言語化してみよう! と、本記事はそんな内容です。(いま書いている記事を書くのが大変すぎて安易なテーマを選んだわけではないですからね! 笑)


価値観とは

そもそも価値観とはなんでしょうか?
もしかしたら読者の皆さんと私の認識が間違っている可能性があるので、ここで定義をしてみたいと思います。

価値観(かちかん)とは、個々の人が物事判断する際の基準規範を指す言葉である。これは、個々経験教育、文化背景などにより形成され人々行動選択意思決定影響与える。価値観は、社会生活を営む上で行動指針となり、人間関係コミュニケーションの質を左右する要素である。 価値観は、個々の人だけでなく、集団組織社会全体にも存在し、その特性や行規範形成する例えば、企業組織文化や国や地域風土伝統などは、共有された価値観によって形成される

価値観(かちかん)の意味や定義 わかりやすく解説 Weblio辞書

Weblio辞書さんによると、上記の定義のようですね。
私自身が認識している意味としては、上記の中の
「個々の人が物事を判断する際の基準や規範の指す言葉」というものになります。

以下からはこの定義に従って私の考える一番の価値観を言語化していきます。

発信者の価値観を定義する

私は普段、情報を得る時の癖のようなものがあります。
それは発信者の価値観を定義すること。

普段の仕事の中だったり、SNSのやりとりだったり、Youtubeの動画だったり、人との会話だったり。
そんな様々な情報を得るときにはまず初めに相手の価値観を量ります。

話の文脈からその情報がどのような立ち位置にあるのか、どういう背景があっての情報なのか、人の発言であれば相手の立場や表情はどうなのか。
そういった情報をとりまとめて、発信者の価値観を自分の中で定義するというわけです。

私の価値観の重さ

情報に対する価値観を定義した後はどうするか?
私自身のもつ価値観と比較して情報を評価します。

基本的に私は私の持つ価値観をこのように考えています。

自分の価値観は正しくない

元々ネガティブ思考なのもあり、私にとって、自身の価値観は全然重要ではないし重さもふわふわと軽く置いてあるものなんですよね。

そんな軽い価値観と比較した場合、だいたいは発信者の価値観が重くなるわけです。

自分にとって一番楽な価値観を選ぶ

情報に対して定義した新しい価値観と自身の軽い価値観を比較して、だいたいは新しい価値観に重みを感じるわけですが、だからといってコロコロ価値観が変えはしません。

私の軽い価値観の中でも大切にしているものがあります。
それは感情です。
前回の記事でも記載しましたが、私は個人の中で感情というものを第一にすべきと考えています。

価値観にも合う合わないがあると思いますが、その合う合わないとはなんなのか?
それは自身の感情に合うか合わないかだと私は思っています。

いくら世間的に評価されている価値観だとしても、感情が拒否反応を示している場合は自身が辛くなるだけです。

私は新しい価値観に対して、自身の感情との相性で受け入れたり、拒否をしたりしているというわけです。

私の価値観の変わり方

つまるところ私の価値観の変わり方はコレです。

あらゆる価値観に対して無理のない範囲でいいとこどりする!

私自身の価値観を感情をベースに軽いところに置いてあるからこそ、私の価値観が変わるということに対して抵抗がありません。
むしろ、いまの価値観なんて微妙なんだからもっといい価値観をください! と普段から思っています笑

ただなんでもかんでも取り入れられる器は全くないので、私の感情をベースとしていろいろな価値観を取り入れてどんどん変えていこう! 
それが私の価値観の変わり方です。

余談

最近変わった価値観をひとつ。

私はつい最近まで整形などに対して、「親にもらった顔なのに」と整形を否定する意見に対して全く理解ができませんでした。
何故ならダイエットなどでも顔面なんて変わるじゃん。とそう思っていました。

その価値観が最近覆りました。
人の骨格というものは遺伝される、という話をよくききます。
顔の造形なども親からの遺伝により形成されるものだと思います。

「親にもらった顔」を整形するということはつまり、親の顔という遺伝要素を否定することなのでは?
つまり顔を整形することは間接的に親の存在を否定することにつながるのではないか?

そう考えると「親にもらった顔なのに」という意見を理解することができます。

価値観のいいとこどりのおかげで、共感まではたどり着かなくても、他人の意見に対しての価値観をうまく解釈できたり、さらにその価値観を取り入れたりすることができるようになりました。

そんな余談でした。

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