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【第9話】いい写真とは?寫眞機と被写体の間に心を感じる写真

noteで「寫眞機余話」をスタートして、ちょうど1ヶ月になった。ひっそり始めたつもりだったが、「スキ」が100以上を超えた。素直に嬉しい。まだまだ書きたいことがたくさんある。引き続き、お付き合い願えたら幸いである。

私はペンで40年ほど生活してきたが、文章を勉強する際には明治から現代の巨匠たちから新聞・雑誌等の商業的文章、さらには最近の若い人たちまで、幅広く参考にしている。

人間が自分の頭の中で想像したり、考えたものは、たかが知れているものだ。他人の所作や生産物を見ることは大切だと思っている。

写真も同様である。いろいろな写真家の作品を見たり、言葉を学ぶにつれて実感することがある。

写真家も結局は自分の人生を離れては作品を作れないのではないかということだ。写真は撮影者が生きていた道程の象徴であり、写し絵ではないかと感じる。

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(写真の撮影機材はⅢf+Elmar-L 50㎜ f3.5。昨年初夏、コロナ禍で人が消えた街で、ふと見かけた無言の老夫婦。その手は固く握り合っていた。この光景を深く心に刻みたいと思い、あわててパンフォーカスで撮影した)

というわけで、きょうのテーマは「いい写真とは」である。

いい写真なんて、受け取る側の主観的の問題だから定義づけることは実にナンセンスな話だ。ただ、私自身が好きな写真だったら定義づけることができる。

私が好きな写真。それはカメラと被写体の間に撮影者の心がしっかり入り込み、その心情が理解できる写真だ。

たとえば、ライカ使いで有名なハービー・山口さん。

ハービーさんは路上ポートレートでも、被写体の後方、たとえば背景の川岸や道路をぼかしたりしない。人物だけでなく背景もしっかり描き切っている。

最近は大口径レンズがハヤリなせいか、スタジオ撮影のように路上の人物スナップでも背景をぼかした写真が少なくない。

モデルの美しさをフューチャーしようということなのだろうが、美しい人は星の数ほど存在する。そういう写真は私には「きれいだね」「いいね」で終わってしまう。

ハービーさんがなぜ背景をぼかさず、写し込んでいるのか?

最近、その理由について、あの道や川岸の向こうに希望とか未来があることを伝えたいからだと話されていて、「なるほど」と合点がいった。

それは単なる写真の表現論ではなく、ハービーさんの歩んだ人生から帰来する心の目ではないかと感じている。

難病に罹患し、長く生きられないかもしれないと不安とコンプレックスを抱えながら生活した青年期。大学卒業後は就職できず、「日本では雇ってくれる会社はない」と失望し渡英した20代。

ふたつの絶望から這い上がるように「ネガをポジに変える人生」を歩んで、いまのハービー・山口さんがある。

だからこそ、被写体の背景はぼかさず、写真のなかに「ほら、あの道の、橋の向こうには未来や希望があるんだ」という囁きを刻み続けているのだと思う。

私のTwitterのTLには、様々な写真が流れてくる。老若男女、みんな実に上手だ。下手な写真展に足を運ぶ意欲を失わせる写真も少なくない。

そんな中で、ここ1〜2年で「いい写真」と感じた1枚を紹介したい。

これは昨年7月、私のTLに流れてきたnao(@nao_tkhs)さんの写真。

お母さんから送られてきたお父さんと自分の記念写真で、撮影者はお母さん。ピンボケだが、撮影者の愛情がひしひしと伝わってくる。どこのお母さんも名カメラマンなのである。

ちなみに、naoさんは現在、プロの写真家として活躍中だ。どんどん成長して私の目と心を楽しませて欲しいと思う。

ことほどさように、写真は上手いとか、下手だとか、そういう基準だけでは判断できない表現世界だと実感するのである。

次回は「寫眞機余話」も10話目、節目でもある。

というわけで、長年、ペンで生きてきた私が写真に勝てないと思った瞬間と、世界中に衝撃を与えた写真家の話をテーマにしたい。

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