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すごく素敵な子育て支援施設に二度と行かないと決めた日

仕事している時と、子育てしている時とでは、間違いなく前者の方が話の通じる人と触れ合う割合が多かった。

それは、子供が"まだ話せない"という当然の事実に加えて、それよりも、その時期にあらゆる場所で一緒くたにされる「母親」という括りの中で色濃く炙り出される感じ。

「母親」はあくまで状態を表す言葉であり、何かをグループ化する言葉ではないのに、時々私は誤解してしまう。

職場では、大体みんな似たような感覚を持っていて、居心地の良さみたいなものがあった。
もちろん苦労はある。でも、互いにちょうどいい距離感を保てていて(余程仲良い人としかプライベートの付き合いはないし)、金銭感覚も大きく外れないし、「一体どう生きてきたらそういう感覚になるんだい?」みたいなことは、まあ無かった。

そんなところから、妊婦へと自分の状態が変化し、産休に入り、子供を産み、本格的に未知なる世界へと足を踏み入れる産後。

ここにきて初めて、行政の方々による、育児という大海に突如放たれた我々が孤独にならないようにするためのあらゆる試みを知ることになる。
これはこれは、すごくありがたい。
実際、上の子の産後は区の検診で一緒だったママさんと仲良くなって、お互い引っ越した今もいいお友達である。

そして、「母親(父親)」ならば誰にでも開かれた場となる最たるものが、子育て支援施設
子連れに優しいし、遊び道具もあるし、外には遊具付きのお庭があったり、野菜を育てていたり、職員の方々によるイベントが催されたりもする。
子育てサイドのワンダーランドだ。

***

その日も、自転車で2人を乗せて連れて行った。抱っこ紐はカゴの中に入れて。

平日、例えば上の子がお休みの時、当時4歳児と1歳児の2人を安心して連れていける場所と言えば、子育て支援施設しか私の中には選択肢がなかった。

たっぷり遊ばせて、帰ろうとしたその時。自転車置き場にいくと、【壁/私の子乗せ自転車/(ぴったり寄せて)誰かの子乗せ自転車/広めのスペース/壁】みたいになっていた。

その時の私の状態は、1歳児を手で抱っこ。
駐輪場は道路に面していて、1歳児を4歳児と共に下に立たせ、そこにある誰かの子乗せ自転車を動かす…ということは、危険だと判断。
それで一旦施設に戻り、係の人にヘルプを求めることにした。なぜならここは子育て支援施設。こんな時にでも人の手を借りられる、ありがたや〜くらいの気持ちで、入り口に戻った。

すると、ちょうど帰るところだった4歳くらいの男の子を連れたお母さんが、「あれ?私の自転車かな」と一緒に出てきてくれたので、こりゃちょうどよかったですわと、みんなで駐輪場へ向かった。

その後だった。

「で?どうすればいいんですか??」
そのお母さん、仁王立ちで怒ってるじゃないか。

「ええっと…ちょっとこんな感じで自転車を動かせなくて、乗せるスペースが少し確保できるとありがたいです。」と言ってみるも、なんか怒ってる。怒ってるぞ。仁王立ちのまま、一歩も動かないぞ。

状況をみた係のおばちゃまが、「上の子もいて、下の子抱っこしてたら、動かせないもんね(←私のこと)!ちょっと待ってね~!」と、そのお母さんの自転車を動かしてくれた。

その様子を見ていた男の子が、「なんだ~。そういうことなら先に言ってよ~。」とへらへらっと言うと、仁王立ちのお母さん「ぴったり停めなきゃ、他の人停められないからこうしただけなんだけど。」とぴしゃり。

私は心臓バクバクのまま、子供たちを乗せ、仁王立ちのお母さんに睨まれながら、おばちゃまにお礼を言い、帰宅したのでした。

帰り道は色んなことが頭を回って、一瞬だった。
涙が出てきて、私の何がいけなかったんだろうか…と考えて見たり。
何が彼女を怒らせてしまったんだろうか…何か誤解を招く行動をしただろうか…と反省したり。
私だったら「あ~すみません~!」なんていって、ササっとどかすけど。
私だったら…。私だったら…。
情けなさやら怒りやら悲しみで顔がべちょべちょになりながら、よっこらせと2人を下ろして、ドッと疲れた身体をソファに沈めたのでした。

このエピソードには、いろいろな考察ができると思う。
そもそもそんなの気にするなよ、とか(今書いてみると大したことないように見えるんだけど、この時は本っ当にショックだった)。
お願いの仕方が悪かった、とか(自分を悪者にされたかのように感じさせてしまったのかも)。
こういう事態に備えて抱っこひも付けとけよ、とか。

でも私の中で確かなのは、この一件をきっかけに、もうこの子育て支援施設には行かないと決めたことだ。

ただでさえ周りに気を遣いまくって過ごしていた子連れの日々、唯一安心できる場所に連れて行ったはずが、同志と思っていたはずが、こんな出来事に遭遇してポキッと折れた。

支援施設の係の方って、すごく優しい。
どんな母親でも受け入れてくれるし、どんな母親にとっても味方でいてくれる。だから安心して子供を連れていける。どんな母親にとっても、受け皿になってくれるのが、これすなわち福祉だし、安心して私たちが通える所以で、本当にありがたい。

だからといって、そこに来る私と同じ「母親」も、同じように味方だとは限らないのだよ、ということを、私はトラウマと共に学んだのだった(大変だ、書いてみると当然すぎて、オチ感がない)。
そして、多かれ少なかれそれぞれが色々な背景を抱えている、「受け止めて欲しい人たち」なのだということ。ちょっとした言葉や、態度や、価値観の違いがきっかけで誰かの琴線に触れてしまうかもしれないし、ちょっとした価値観の違いにとどまらない人と触れ合うことになるかもしれない

援助や助けを必要とする同士のコミュニティって、難しいんよ。きっと。辛さは共有できても、共有は理解に必ずしもつながらない。

でも、なんとなく、母親は、同士であり、仲間であり、味方だと、思ってしまっていたのよね。

公園でたまたま会ったお子さんが同じくらいの月齢だった。
上の子と下の子の年の差や性別が一緒だった。
そんな偶然を勝手に理由にして、なんとなく友達になれるかも!運命かも!みたいな感覚

こんなの、たまたま同じ時期に母親になって、たまたまその場に居合わせただけ。
それ以上の期待はするでないぞ、と、当時の私に言いたい。

この子育て支援施設にはこれ以来行っていないし、今後も行くことは二度とないと思う。

行くことはなくなっても、もともとの友達に子供が生まれたりとか、思わぬところで子供を介して知り合ったお母さんが気が合う友達になったりとか、まあ、子供と過ごしていれば子育て支援施設以外にも色々と良い出会いはある
それは人としていい出会いで、きっと、出会う場所がどこであっても、その人たちとは仲良くなれただろうな、っていう。友達ってそんなもんですよね。

だから、お母さん同士で何かあったことに気をもんだ人がこの記事を読んだなら。

大丈夫大丈夫。

「母親」はあくまで状態を表す言葉で、その中で敢えて支え合おうとしなくても良い。

最初から母親の輪を目指して行かなくても大丈夫。行ったところで少しくらいトラブったって大丈夫。行かない選択をしたって大丈夫。

母である前に一人の人間なのでね。自分の過ごしやすいところは自分で見つけて、子育てしていきましょうじゃないですか。


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