漫画における絵とことばの境界線

宮崎夏次系『僕は問題ありません』を取り上げる。これはモーニング増刊『モーニング・ツー』の2012年12月号〜2013年7月号に掲載された8作品を収録した短編集である。
まず、第一話『線路と家』より、主人公とおこの祖父が亡くなり、遺書に書かれていた家の変形ボタンを押すシーンを取り上げ、ことばを形式的に7種類に分類し、その中から特に、手紙の文面、および「聞こえ方」の表現に着目した。次に、短編集全体から作家のオリジナルの擬声語・擬態語をピックアップし、手描きの表現や独創的な文字列が生む効果について考察した。最後に、これらは「描かれることば」なのであり、「絵」との間にテキストであるかそうでないかという絶対的な境界線はあるものの、ことばはその境界線を挟んで「絵」の領域に限りなく近づくことができ、またその自由さが漫画の表現を固有のものかつ無数のものにしているのだと結論づけた。
この作品を分析する際、漫画においてことばの言い方だけでなく聞こえ方にも表現の幅があると気づいたが、浅野いにお『おやすみプンプン』の発表から、それに類似した指摘ができる。プンプンが神様から受け取る声は、フキダシや枠に囲まれず、背景いっぱいにダイナミックなフォントを用いて表されている。「神」という存在から与えられることばは、そもそも発話によるものであるとは分類できない可能性がある点において、必ずしも言い方と区別して聞こえ方の表現の一つだとは言えない。しかし、これが言い方でも聞き方でもない、つまり、これが一般的な登場人物同士の会話、および内語とは全く異質なものであり、「言う」「聞く」「思う」といった枠組みから外れていることを端的に表す効果を持っている。
一方で、この神様からの声は、「絵の領域に近づくことば」として分類されるものだろうか。私が発表で言及した、変形した家の外から轟が発する「大学さーーん」と比較したい。枠やフキダシの外にテキストのみで表されている点で、両者は似たものであるように思われる。「大学さーーん」は宙に浮いたような配置と縦に伸びきった「ー」によってその特殊な聞こえ方を演出するが、テキスト自体は通常の台詞と同じものが用いられている。つまりこの「大学さーーん」を「絵的なことば」たらしめるのは、字および字の集合に施された加工ではない。むしろ、加工されていない字を「読む」際に形状や空間を瞬間的に意識させており、それは対象を「見る」ことに該当している。それに対し『おやすみプンプン』におけるこの神からの声の数々は、字および字の集合に直接大きさ、太さ、密度、レイアウトなどの加工を施すことにより、神の声としての絶対性を表しており、いわば「描かれた字」である。
私は発表の最後に、漫画におけることばと絵は、字であるかないかという線引きによって分けられ、その線を挟んでそれぞれの領域内を自由に動き回ると結論づけた。しかし、通常の字および字の集合の形状と配置を把握するときの「見る」動作が絵を見るときと同じ働き方であることと、字そのものへの加工が絵を「描く」ことと同じ働き方であることは全く異なる。つまり「大学さーーん」とプンプンにおける神の声は、いずれも絵とことばを隔てる境界線付近にありながら遠く離れたところに存在するだろう。

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