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愛しの国カーボベルデ(1)

・現地に着くまでが大変だった

私が初めてカーボベルデを訪れたのは1997年のことでした。

成田からパリ経由でセネガルのダカールに入り、
そこでビザを取得して現地へ向かうという行程なのですが、
ダカール到着時に出迎えにきて下さった日本人の方が
まずおっしゃったのが、

「あのー、皆さんは明後日のセネガル航空でカーボベルデへ
向かわれるのですよね。よもや好んでセネガル航空を
選んだ…とかではないですよね」

すると、航空券の手配を担当した方が、

「いや、それが…、
聞いたこともないカーボベルデなどという国に
行くということで、それと比べれば
パリダカの終着点のダカールが首都である
セネガルの方が絶対的にメジャーなので、
まぁ、『好んで』と言われれば、
『好んで』選んだんですが、何か?」

「いやぁ、そうでしたか。
ご存じなかったんですね…。
実はこのところセネガル航空は非常に
評判が悪くてですね、
つい先日最後の一機が落ちまして、
今はモーリタニア航空からの
借り機体で運行しているんです。
それと比べますと、カーボベルデ・エアは
大変評判が良く、遅延も事故も起こさない
大変優秀な会社でして…」



「ガガーン!!!!!」

これがまだ2度目のアフリカという
「新米」の私としては、
「明日が一巻の終わりかも」
などと思いながら、一行とともにホテルへ。

ホテルに着くと、
かの迎えに来て下さった方が
今度は、

「あのー、この辺りは最近治安が悪いので、
すぐ目の前にスーパーがありますが、
よもや歩いて道を渡ろうなどとは
考えないで下さいね…」



「なんじゃ、そりゃあ~!!」

*****

翌日、手続きや打ち合わせのために
車で出掛けてみると、
「うーん…」

確かにパリダカのイメージからは
ほど遠いような…。

道路はどこもひどい渋滞で、
運転手は誰も殺気立っており、
車間距離などという概念はなく、
まるで当たり前のことのように
車の横腹を、人が肩を寄せ合うように
ギコギコと擦り合わせて通っていったりで…、
乗っているだけなのに
ひたすら恐ろしい…。

着いた先は、まさしく
パリダカラリーの終着点として著名な(だった)
Place de l’Independence、 こと
独立広場。

車を降りて目的地の建物に向かおうとすると、
「金をくれ~」、
「これを買わないか~」
と、ン十人もの群衆が纏わりついてくる。

下を見れば、
「お恵みを~」と、
縋りつかんばかりの
いざりの物乞いがうじゃうじゃ…!

手慣れた様子で
この群衆をかき分けて進むのは
前日空港に迎えにきてくれた人。

以下7人は、ついていくだけで必死!

それまでで最も衝撃的な知見や経験が、
一気にわが身を襲ったような
2日間を過ごし、

翌日。

とうとうその日がやってきました。

「少しでもメジャーな国の航空会社を」と
セネガル航空を選んでしまった方が、
さぞ責任を感じられたのでしょう、
怯えた様子の私に
おまじないを教えて下さいました。

「この飛行機は安全だ、
この飛行機は安全だ、
この飛行機は安全だ、
と3度唱えれば、絶対大丈夫です!」
と。>笑

ダカール到着時に申告した金額以上の現金が見つかれば、即没収、
現地通貨が少しでも見つかっても即没収、
何も問題がなくても、因縁をつけられたら即没収
といわれる恐ろしい現金チェックをクリアして、

いざ搭乗!

機内は何年も掃除していないのだとしか思えない
汚さ加減のすさまじさ!

席について窓ガラスを見ると、
二重窓の2枚のガラスのあいだに
ゴキブリの死骸が…!

「そもそもどうやってそんなところに入ったんだ、
このゴキは…」
などと思いながら、律儀に、

「この飛行機は安全だ、
   この飛行機は安全だ、
       この飛行機は安全だ~」

と、口の中でもごもごと唱え、

いざ出発!

2時間未満の短いフライトとはいえ、
国際便なので軽食が出る。
乾いたハムとチーズが挟まれた、
ひからびたも同然のフランスパンの
サンドイッチ…。

運転、否、操縦も荒っぽく、
恐ろしい急上昇や急降下の末
なんとか無事着陸。

・ようやく現地入り!

飛行機を降りてみると、
セネガルのジメっとしていて如何にも
病原菌がよく繁殖しそうな気候とは
打って変わってカラッとした砂漠気候の
カーボベルデの首都プライアの
「フランシスコ・メンデス空港」は、
当時はまだとても小さく質素で、
とても国際線が降りる空港とは
思えないものだったけれども、
ダカールの空港とは違って皆笑顔で、
しかもポルトガル語をしゃべってくれるので、
一気にホッとしたことを今でも忘れられません。

この空港、その後2005年には建て替えられて
近代的なものに生まれ変わり、
更に2012年にはその名称も変わりました。

で、その新名称が、
「ネルソン・マンデラ国際空港」!

尊敬しているってことなんだろうけれど、
人ン家の元大統領の名前を
自国の最大の空港に付けるもんかね…?

そういやぁ、アンゴラのナミベ空港が
かつて「ユリ・ガガーリン空港」だったのも
「Oh!」って感じだったけれど、
これもまた非常に印象的でしたね。

ともあれ、一行は空港を出てホテルへ。

空港を出た途端からホテルまで
道路は全て石畳!
車がゴロゴロと音を立てて進みます。
(※ 今はアスファルト舗装になっています。)

着いてみると、そこは
スタッフが笑顔で出迎えてくれる感じの良いホテルで、
中央がプールになっている広い中庭の三方を、
2階建ての宿舎棟が囲んでいるという造りです。

部屋に行くにはプールサイドの
通路を通るのですが、
そこにはバーとレストランがあり、
十分な広さがあるその通路にも
テーブルが置いてあるので、
飲むのも食べるのも
中か外を選べるようになっています。

なので、
部屋に荷物を置いたあとの打ち合わせも、
その後の仕事が終わってのお疲れビールも
プールサイドで
ハッピー、ハッピー♪

ちなみにビールは、
今は「Strela(シトレーラ)」という
国産ビールがありますが、
当時はポルトガル産の
「SuperBock(スーペルボック)」と
「Sagres (サーグレシ)」が主流でした。

私は「Sagres」が好きなので、
ブラジル以外のポルトガル語圏では
いつもこれです。

ところでこのホテル、
一つだけ変だと思ったことが。
海辺にあるというのに
外向きの窓があるオーシャンビューの部屋は
スイートルームなどだけで、
我々が泊まった普通の部屋は、
窓が中庭側の通路に向いており、
それ以外では、シャワールームの
やけに高い位置についた
通気口程の小さな窓だけなのです。

部屋の窓は、
昼間でも人が通路を通ると中が丸見えなので、
カーテンすらうかつに開けられません。

その時は外向きの窓もあればいいのにナと
漠然と思っていただけでしたが、
後に聞いたところ、この建物は
元々は刑務所として使う予定だったのだとか!!

なるほど!
窓のある部屋は監守らの宿舎として
設計されたのかもしれませんね。

https://www.jtb.co.jp/ovs_htl/detail/search_detail/46310/

こちらがそのホテル。↑
あれから20年以上経っているので
随分改装されていて、
外向きの窓のある部屋も増えているようですが、
このサイトの40枚ある写真のうち、
18番目が当時の様子に一番近いです。

こちらはホテルの宣伝ビデオ↓
(値段の高い部屋しか見せていないところが、なんだか笑えます。)

*****

プライアに着いた日の夕方、
市街地の様子を見がてら
外で夕食を済ませてこようということになり、
ホテルの入り口で車を待ちつつ、
海を見ようと脇の芝生、否、
草むらに足を踏み入れたところ

あらびっくり!
そこで休んでいた
バッタの群れが驚いて、
一歩歩く毎に
バッ、ババッ、と跳びはねる!

でも、それ以降、何度カーボへ
行ってもそんなことはなかったので、
その時たまたまバッタの襲来が
あったということなのでしょうね…。

…て、あんな離れ島に
どうやって渡ったんだろう…?

近年バッタの襲来が、
アフリカや南米で大きな問題となっていますが、
セネガルからカーボベルデまで
飛んで渡ったんだとしたら、
まじ恐るべし、バッタの生命力!
と、思わざるをえません。

******

さて、こんなに書いても、まだ
セネガルから首都プライアまで辿り着いただけです。

しかも、
この時の主要な目的地は、実は首都プライアではなく、
サンビセンテ島のミンデロでした。

そこでプライアに2~3伯した後、
今度は、かの
「安全で評判がいいカーボベルデ航空」に乗ります。

・いざサンビセンテ島へ!

セネガルで聞いていたとおり、
小さいけれどきれいな飛行機に、
にこにこ顔の素敵なクルー。
快適な1時間ちょっとのフライトで
ミンデロのサンペドロ空港(旧名称)に
無事着陸!

そしてタラップを降りた途端、
7人で顔を見合わせて出た言葉が

「火星だぁ!」

この動画では、まだ多少の緑が
見えますが、当時は
時期的なこともありはしますが、
周り全てがはげ山で、
「火星に来てしまった」としか
表現の仕様がなかったのです。

そんなこんなで、ミンデロについても書きたいことがいっぱいあるのですが、だからこそ、それはまた次の機会に!

・おまけ

実は、「この飛行機は安全だ、この飛行機は安全だ、この飛行機は安全だ」というおまじないは、その後の私の人生に、大きな影響を与えました。

というのも、その後飛行機に乘る度にこれを唱えるようになった私ですが、やがて「この車は安全だ、この車は安全だ、この車は安全だ」や「この船はは安全だ、この船は安全だ、この船は安全だ」などとバージョンを増やしていき、これを唱え忘れた時にトラブルに見舞われるということが2度もあった末、とうとう日本でも唱えるようになり、免許を取ったばかりだった娘が不安だと言えばこれを教え、と、ナント世代まで超えて「ご利益」にあやかっています。

ちなみに、おまじないを唱えなかった時に起きたこととは、ブラジルで大事な会議に向かう途中、車が小さな接触事故を起こしたことと、アンゴラで「こんなところで辞めて」と言いたくなるようなヤバ気なところでタイヤがパンクし、運転手が直す間、客が見慣れない黄色人種だからか、ン十人もの野次馬に囲まれて冷や汗をかいたこと…と書いている途中でもう一件思い出しました!

なんであの時もそうだったのだと気が付かなかったのだろうと思うような、思い切り印象に残る一件です。

が、それもいつかまたお話ししますね。それだけで記事が一本書けてしまいそうなので。

なにはともあれ、ここまでお読み頂きありがとうございました。



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