沖縄は<遠いところ>のまま

以下の記事は、去年の夏に書き、しばらく放置してしまっていました。ですが、近時、以下で言及した作品がいくつかの映画祭で賞を獲得している、という話を耳にしたので、「こういう見方をする奴もいる」ということを書き残しておこうかと思いました。
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『遠いところ』を鑑賞してきました。

結論から言うと、……すまん、これはちょっとダメだった。
作り手は真面目なんだろうし、役者陣、とくに若い役者陣はすごくよかった(とりわけ主人公役の俳優は、手放しで褒めたいくらい素晴らしかった)。若い役者陣からあれだけの演技を引き出せた監督の力量は非凡だと思います。
だが、考えれば考えるほど、作品としては相当大きな社会的・倫理的問題があるのではないかと考えざるを得ないです。

作品の主題は、沖縄の若年層の貧困問題、のようです。沖縄島中部のコザのあたり(知る人の話によると、映像から考えるに、もともと売春宿等があった、いわゆる「赤線」地帯的なエリアが舞台なのではないか、とのこと)で、中卒で子どもを産み、キャバクラで働く少女が、次第に追い詰められ売春に手を染めていくという話です。幸いにして、鑑賞した映画館で監督とプロデューサーのトークセッションに接することができました。作り手の意図を生で聞けるのは、僥倖、だったかもしれません。以下、監督とプロデューサーの方の発言については、私の記憶に基づいているという前提でお読みいただきたいと思います。

作品としては、どうなんでしょうね。はたして私たちにとって「遠いところ」に見える主題を「隣の家でも起きているかもしれない問題」(これはトークセッションにおけるプロデューサーの言)にすることに成功したと言えるのでしょうか。残念ながら、仮にそうした意図があったとしたならば、かなり失敗してしまっていると思います。私は率直に言って、「遠い遠い、<日本とは違う>沖縄の片隅で起きた、特殊な物語」にしか見えませんでした。『遠いところ』は、<遠いところ>のまま、なのではないかと。
以下、おそらくは「ネタバレ全開」と言われるような書き方になりますので、そのおつもりでお付き合いいただければと思います。

主人公はなぜ貧困に追い詰められているのかがわからない

この作品、率直に言ってそもそもなぜ少女が貧困に追い詰められているのかがよくわからない。言い方を換えると、沖縄を舞台にして若年層の貧困問題を描いているけれども、その必然性が感じられないし、何が原因なのかは本当にわからない。作中、母親がどうやら犯罪で収監されているらしいこと、父親からはなかば捨てられたも同然の状態であること、祖母が事実上の後見的立場にあるらしいこと、しかしその祖母もキャバで働く主人公の少女を決して快くおもっていないらしいこと、「夫」(カギ括弧をつけますが、婚姻しているのかどうかはわかりません。監督の話を聞く限り、どうも婚姻はしていなさそうです)の家庭も複雑そうで、しかし「夫」もなかなかのクズであり、少女のキャバクラでの稼ぎを酒などに溶かしてしまう人間であること、はわかるのですが、なぜこういう状態に至っているかが感じ取れる事情がない。主人公がキャバで、そして最終的には売春で金を手にしようとすることはわかるのですが、なぜこういう状態に至ってしまったのか、また、それ以外の登場人物がいかにして生計を立てているのかがわからない。主人公達の目の前の生活はわかるのだけれども、それをささえる「生活」が、実はよくわからない。これ、割と重要なはずで、個人の要因や資質によって貧困状態に窮しているのか、それともそれ以外の<社会>的要因に起因する部分があるのかが見えないと、主題とその意味がまるで変わってくる可能性があるはずだからです。

その割には、少女の親族は、春に沖縄で行われる行事である「シーミー」(清明祭、一族集まっての墓参りでごちそうをかこんだりする)がきちんと行われるんですよね。一族がきちんと集まって、この種の行事を開催できるということは、また、少女もこういう場にアクセスできるということは、少なくとも経済的に全く行き場がないような状態とはいえないはずだし、少女も完全に孤立しているわけではない気がする(個人的な経験から言っても、親族がそれなりに集まれるからには、親族が全体としてそこそこの経済的基盤と日常的・恒常的なつながりを持っていないと難しいと思います)。なぜ祖母はそうしたところで一族の力を借りるなどして少女をなんとかしてやれなかったのか。かなり違和感があるんですよね。貧困が、非常に主人公に限定された、その意味でどこまでも個人的な問題であるように感じられる。<社会>との結びつきや<社会>構造の中における少女という視座が欠落している感じがあるんです。もちろん、沖縄に限ったことではないと思いますが、血縁・地縁がいろいろと面倒くさい可能性は結構あってですね……経験上、わからんでもない。(中途半端に)近しいからこそ、<身内>に冷酷になれる仕組みがあるのかもしれないし、それを表象する意味があったのかもしれない。でも、そういう文脈だったのかと問われると、……そうも言えない気がします。

社会と個人の切り結び方

これが、たとえば是枝裕和監督作品の場合とは異なる気がするんですよね。個人と<社会>とを切り結ぶ視点がある。「社会が悪い!」「政治が悪い!」とかそういう単純な話ではなしに、追い詰められる者と、それを追い詰める<社会>が見えると思うんです(最近作の『怪物』もそうですし、『万引き家族』もそうだと思います)。本作『遠いところ』をイギリスの社会構造上の問題に切り込む監督であるケン・ローチに対する「アンサー」と評する声もあるといいますが、私が知る限りケン・ローチは<社会>の構造の中における個人、あるいは個人から見える<社会>のおかしさということに鋭敏だと思います。個人を<社会>から切り離された、いわば<真空>の中で孤立して生きる存在としては見ていないと思うのですが、この作品では少女が貧困に追い詰められ、売春に手を染めるまでの<社会>的な要因が見えない。せいぜい、あくまで、少女とその直接接触がある人間との限定された関係に焦点が絞られているに過ぎない。この限度での<社会>しか見えない。もちろん、それも<社会>に違いない。しかし、結果としては、単純に、クズな「夫」、嫌な祖母をはじめとする周囲の人間達の愛のなさに追い詰められているようにしかみえない。そして、前述の通り、主人公達の目の前の生活はわかるけれど、それを支える「生活」は見えない。何が原因でこうなって、何に立脚してこれらの人々は生きているのかが、本当にわからない。
まずいのは、これ、そういう個人の問題であれば、それは単に「そういう(運の悪い)人もいるよね」に過ぎない話に止まらざるを得ないはずですし、<沖縄の>情景として描く必要性が結構低下すると思うんですよね。さらにもっといえば、そもそも普遍的な問題になりにくくなってしまう。でも、貧困は、単なる運の問題だとか、本人の努力の問題とは異なるところにもさまざまな原因があるはずです(本作が「元ネタ」にしているに違いないはずの、しかしなぜか言及が避けられているかに見えるいくつかの著作は、そのことを指摘しているはずです)。そこが見事に作品では捨象されている。でも、それって本当に捨象していい話なんですかね?

ただ、どうもそれは監督の意図だったかもしれない。監督がトークセッションでの質問に答えてこう言っていたのですが、ケン・ローチは社会構造にフォーカスするが、自分(監督)は主人公にフォーカスしたと。プロの映像作家のケン・ローチに対する評価がそれでいいのか、素人の私には判然としませんが(もっとはっきり言えば「納得しませんが」)、ご自身の意図としてはそうなんだろう。それを聞くと、確かに理解できる部分もあります。

突如現れる玉城デニー

ところが、わりと明確な意図を持って<社会>、それもいきなりなかなかのスケールの<社会>との切り結びをしていると見ることができるところもあって、正直に言って面食らうシーンもあるんです。
劇中、辺野古の新基地建設の座り込み現場の風景(「誰も座っていないところ!」)が挿入され、移動中の車のラジオが伝えるニュースの内容として「玉城デニー知事の児童福祉政策」が伝えられるシーンがあるんですね。この種の作品で、現職の公職者の名前を実名で出すのは、それ自体結構特異な話だと思います。念のために言っておきますが、この作品はドキュメンタリーではない。それは監督が明確に否定しています。
これ、作品の文脈上は明確に玉城県政という特定の、現実の、政治的立場・政治体制に対する批判になっているはずなんですよ。つまり、玉城デニーの児童福祉政策は滑ってるぞ、という。
別にそれはいいと思うんですが(むしろそれ自体はやるならやったほうがいいかもしれない)、よくありがちな、「沖縄は基地問題しかやらない!もっと深刻で優先順位の高い社会問題が山積しているはずなのに!」というアレ。アレにしか聞こえないんですよ。
もちろん、<当事者>の視点に立てば、こういう批判は結構なリアリティをもって成立しそうな気がします(実際、そのような声はあると思います)。ですが、後述するような事情で、この「切り取り方」にはかなり問題があるような気がします。
ともあれ、ラジオで流れる音声が、まさに空虚に聞こえ、玉城デニーは所詮口先だけ、という印象を与える。あきらかに、玉城デニーが掲げる政策が失敗しているという印象を与える演出になっている。まぁ、それはそれでひとつの考え方だと思いますから、そういう意見が表明される作品は、アリだと思います。それはそれとして、ひとつの政治的立場であり、それが作品を通じて主張されること自体には、何のおかしさもありません。むしろそういう作品も含めて社会に流通することが、民主主義的な社会としては健全なありようでしょう。
ですが、そもそもの話として、仮に「社会構造ではなく主人公個人にフォーカスする」作品にして「ドキュメンタリーではない」作品だというのなら(監督はこの立場のはずです)、突然現職知事の実名を挿入する必要性があったんでしょうか。誰が知事であっても取りこぼされる者がいることの問題性を問うならともかく、特定の政治家だけを狙って攻撃するのは、かなり明確な意図があってのことだとしか考えられないですし、そもそも「この」作品、すなわち、「社会構造ではなく主人公個人にフォーカスする」作品としてはかなり違和感がある。「この」作品は、<個人>にフォーカスした結果<社会構造>にはフォーカスせず、それゆえに<社会構造>はぼやけたと、監督自身が言っていました。それなのに、いきなり、すごく「社会」との結びつきが、「生(なま)」のかたちで露わになるんですよ。主人公に焦点を当てたんなら、この演出の必然性がわからない。「誰も座っていない」辺野古新基地建設反対の座り込み現場の風景とともに。LINEの音声通話の呼び出し音を想起させる音は、実際のものと一致させないように、しかしそれとわかるような音を当てる繊細な配慮はなされているのに、そこはいきなり、全くフィクションではないという意味で「生(なま)の現実」が挿入されるんですよ。

これ、勘違いされたくないんですが(といっても、そう思う人はいるんだろうと覚悟を決めたうえで言いますが)、別に玉城デニーが批判されようとどうでもいいんですよ。そもそも仮にも民主主義的な社会を標榜するのならば、権力者は批判されてナンボなんで(そもそも批判されない権力者なんかいるわけないし、そんなヤツいたらそれはそれで怖いですよ)。批判する気なら、違う仕方を採って然るべきなのではないか。<個人>にフォーカスした結果、繰り返しになりますが<社会構造>にはフォーカスしなかったからそちらはぼやけたという趣旨を監督は述べていましたが、いやいや、とんでもなく局所的にはとんでもなくしっかりピントがびっくりするほど高いレベルで合ってるじゃないですかと。その意図は、問われて然るべきです。なぜ、そこでいきなり「現実」と明確な結びつきを見せつけるの?と。

ただ、まさか、そういう政治的なインパクトをわからずにこういうシーンを挿入したの?その可能性も絶無、とまではいえない気がします。というのも、実は監督はツイッターの投稿でまさにこの作品の感想の中でこういう「批判」を含めて書いたものを選択的にリツイートしてちょっと話題になった(まぁはっきり言えば軽めに「炎上」した)結果、そうしたリツイートを全て消してしまったんですよね。
でも、はっきり、厳しく言えば、安直に「沖縄は基地問題しか騒がない!もっと深刻で優先順位のある社会問題がここにあるじゃないか!」とやってしまったのではないかな。実はその可能性は決して低くありません。監督はトークセッションで、作中自死を選ぶ登場人物のモデルが自死したニュース(実際、自死しているらしいんです)は取り上げられないけれども、「日米の密約の文書のニュースは一面に流れる」ということを「マスコミもお金を稼がないといけないから」と、やや批判的なニュアンスで語っていましたから。

「沖縄の内部の」問題?

それにそもそも、この作品、徹底的に少女の貧困を「沖縄の内部」の問題に押しとどめようとする強い意図があったのではないか。そういう疑念を覚えさせる演出が随所で丁寧になされていたことも指摘されるべきでしょう。
冒頭、キャバで働く主人公のシーンから始まるのですが、その際接待していた客は「内地」つまり沖縄県外からの客でした。でも、沖縄県外の登場人物というのはそれくらいで、あとは全部、全部、沖縄の人間。追い詰められる少女も、追い詰める人達も。私の友人は、「売春斡旋って内地の人間がやること多いんじゃない?」と指摘します。沖縄のダークサイドを考える場合、沖縄だけでマーケットが成立しているとはちょっと考えにくい部分があるんです。しかし、斡旋する人間もすべて沖縄の人間。
ところが、主人公が売春に手を染めてからとる客3名のうち、明確に一人だけ、沖縄県外の人間とわかる人間がいます。中国人。中国語しかしゃべらない客の相手をしているシーン。残り二人は、実のところどこの人間かわかりません。文脈的に、内地の人間のようにも感じられる…というくらい。これも率直に言って、「その可能性は演出上否定しきれない」というレベルです。
どういう演出上の意図があったのか私にはわかりませんが、私は、徹頭徹尾「沖縄の内部の問題」、もっと嫌な言い方をすると「日本とは違う場所の問題」として描き出そうとしたんじゃなかろうか、と邪推しています。私などからすると、すごく違和感があるんですよ。冒頭のキャバのナイチャー客は「東京だったら未成年の子と飲めるなんてありえないからすごいよね」みたいなことを言うわけですよ。これに答えて「沖縄じゃふつーだよ−」みたいなことを言うわけですよ。
これなんて、一時よくいわれた、「日本の男性が東南アジアの少女を買いに行く」みたいな話をすごく想起させる。新宿や池袋なんかで素人の女の子を買春しているのを想起させる構図じゃないですか。ところがこのあと、見事なまでに「内地の男性」は漂白されている。
そこが焦点じゃないとでも?「主人公に焦点を当てている」から、そこは本質的じゃない?でも本当にそうか?仮に「貧困」を「個人」から描き出したとして、その背景にある複雑な要因の中にそうした光景は必ず映り込んでくるはず。女性が身体を売るのはなぜなのか、という話。こうした<社会>があってこその問題なのでは?
作り手も、それを分かっているからこそ、唐突に、深夜や夜明け前に、嘉手納基地と思しきフェンスの前をひたすら疾走する主人公のシーンが挿入するのではないでしょうか。基地の側を「裸足で逃げる」シーンが挿入されるのではないでしょうか(これも監督言ってたな。「沖縄で問題を撮影するならば、どうしても基地が映り込む」って。わかってるはずじゃん。でも、あのフェンス前の疾走、本当に必要だったのでしょうかね?)。しかし、そうした入り組んだ<社会>の背景は、まさに背景に隠れてしまい、沖縄の問題は<沖縄だけの>問題に収斂してしまう。そんな印象を受けずにはいられません。玉城デニー批判も、この文脈に置き直すと、「結局、沖縄の問題」で終わっちゃう危険性を高めている要素になっていると思います。

もちろん、「沖縄の問題」は<沖縄の>問題として認知されるべきです。これに異論を差し挟むつもりはありません。沖縄も、そしてどんな社会も、たいがい暴力的な側面があって、私たちも何らかのかたちでそれに関与している危険性が高い。そして、監督が示唆するように、残念ながら地元の人間には描ききれない可能性が決して低くない。様々なしがらみがあるから。<よそ者>こそが問題を描き出すに相応しい場合は、かなり多い気がします。その意味で、監督たちの試み自体が否定されるべきでは決してない。
でも、それは「沖縄<だけ>の問題」であることを意味しないのではないでしょうか。そもそも実際、プロデューサーは「これは沖縄だけでなく、隣の家でも起きているかもしれない問題として描いた」という旨、述べているんです。作り手は、<個人>にフォーカスを当てつつ、たぶんその先にある<普遍的な>問題を提起するつもりだったんだと思います(正直、そう思いたい)。そして、それは間違いなく可能だったはず。美しい映像と、あれだけ好演できるキャストを配し、演じさせることのできるだけの力量があるならば(役者の力と、こうした役者を選び出しその力を引き出した点は、間違いなく高く評価されるべきだと思います)。
でも、悪いけどこの作品の作りでは、「沖縄の」そして「沖縄だけの」特殊な問題のままだと思います。かなり意地の悪い言い方をしますが、映画を見た後、「沖縄って大変だねー。あんな女の子が売春しないと生きていないんだね−」とスタバでフラペチーノ飲みながら感想戦する感じ。これです。

ここまでの話をまとめると、監督らは「社会構造にフォーカスしていない」と言うわりに、作品における<社会>や<現実>の切り取りと描き出しにすごく偏りがあって、言葉を厳しくすれば著しく恣意的な感じすらする、ということなんですよね。その結果として、非常にバランスのわるいことになっていて、主題が持っている普遍的な、あるいは遍在的な問題が<沖縄だけ>の問題に収斂してしまった危険性が高い。『遠いところ』は<遠いところ>のまま、なんです。
もちろん、ひとつの作品ですべてを描くなどそんな不可能なことを要求しているのではない。しかし、<社会>や<現実>の切り取り方、本当にそれでいいんですか、という話。前述の通りこの作品をケン・ローチに対比するコメントがあるようで、公式サイトでもそれを紹介していますが、率直に言って、ケン・ローチと対比することはできないと思います。徹底的に、主人公<個人>の問題に帰着させれば、確かにケン・ローチ的なアプローチに対するひとつの「アンサー」にはなり得ていたかもしれません。あくまで<個人の生>に着目し続けるんだと。しかし、これでは、とても。

これ、本当に「架空の人物」なのだろうか?

じゃ、「主人公を焦点にした」という点に話を絞りましょう。実はここもかなり「ヤバい」気がします。むしろ、私はこちらのほうがいろいろな意味で心配で懸念の残るポイントになると思っています。
この主人公、監督の話を聞いている限りどうやら「複数の取材対象から要素を抽出して描き出した架空の人物」ではない可能性があります。言い方を換えると、「かなり具体的な特定の一人の、現に生きている人物」をモデルにしている可能性が高いようなのです。先ほど「夫」という書き方をし、括弧書きで「監督の話を聞く限り、どうも婚姻はしていなさそうです」と述べました。話を聞く限り、「複数の取材対象から要素を抽出して描きだした架空の人物」のようには聞こえない。要するに「アオイ」(主人公)は現実に存在しているような印象が拭えないのです。また、先述した、自死した登場人物のモデルも、監督の話を聞いている限り「どうも実際にいるらしい」のですね。
さて、そうだとした場合、この描き方、本当に大丈夫なのでしょうか。というのも、実は最後の最後に、主人公は完全に悲劇で終わります。いろいろな意味で(若干多義的で解釈の余地はありそうな気がするのですが、しかし、私の能力ではそうとしか解釈しようがない)。
しかし、現に生きて、生活し、これからも生活して行くであろう現実の人間をモデルにしている(はずの)キャラクターを、それで終わらせていいの?それで終わらせて大丈夫なの?という。安易にハッピーエンドにしろとか言ってるんじゃないんです。「現に生きているはずの」人間を破滅させる作品って、いいんですかね。どうなんですかね。いや、あれは破滅ではないというのなら、これは私の杞憂です。しかし、この解釈が成り立つ可能性があり、現に私はその解釈を採っているわけですが、そういう解釈が成立しうるとすれば、やっぱりどうなんでしょうか。私にはちょっと疑問が感じられてならない。
また、繰り返しになりますが、作中自死を選ぶ登場人物がいるわけですが、その自死を選ぶ人物がなぜ自死を選んだのかは、正直かなり飲み込みづらい。これ、やっぱり「現実のモデル」をそのまま、あまり物語的な加工を行うことなく作中に組み込んだ結果のような気がします。いわゆる「フラグ」もないままいきなり葬儀のシーン。なぜ、その人物が自死を選ばねばならなかったのかは、本当に飲み込みづらい。すごく嫌なことを言いますけど、「あの子、死んじゃったんだよね。だとしたら、やっぱり作中でも」という判断だったんじゃないか。そうだとすると、この作品、本当に「フィクション」として成立しているのかも怪しい気がしますし、現実に存在するモデル、それもおそらくいまだ未成年ないしそれに近い年齢のモデルを描く作品として、大丈夫なのかという疑問が残る。

こんなことを言うヤツは少数派かもしれませんが——結びに代えて——

もっとも、この作品に対しては、それが「リアルを示した」ものとして高く評価する声も少なくないようです。そうだとすると、私のようなことを考える人間は少数派なのかもしれない。だったら余計、声に出して「おかしいぞ」と言っておく必要があるような気もしています。実は監督・プロデューサーのトークセッションの質疑応答で手を挙げて質問しようとしたんです。「これで、本当に『遠いところ』は<遠いところ>でなくなった、あるいはそのきっかけになったと思いますか。私は率直に言って<遠い遠い、沖縄の特殊な話>で終わってしまったけれど」と。
ですが、時間切れで打ち切られてしまって。終了後、ありがたいことに質問をお受けしますよ、と言っていただけたんですが、正直そこまでしてお伺いする気持ちにとてもなれなくて、映画館を後にしてしまいました。聞いておけばよかった、かもしれない。いや、聞いておけばよかった。ちょっと後悔しております。

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以上が去年の夏の段階で書いていたことなのですが、2点ほど補っておきたいことがあります。

近年、何人かの社会学者が沖縄をフィールドにしてかなり<実践>的な研究をして、その成果を、専門家のみならず一般の人々にも結構わかりやすい形で公表していると思います。実はこの映画、どう考えてもそういう作品に相当「インスパイア」されているはずなんですよね。主人公達が「裸足で逃げる」シーンが出てきたり、「地元」における「ヤンキー」の人間関係のようなものが出てきたりというのは、その象徴的な示唆だと思うのですが。いずれにしても、こうした成果をきちんと吸収しきれていたのだろうか、という点は気になりました。

もうひとつ。これは作品そのものに対する意見というわけではありません。
ある映画賞で、この作品は新人監督賞を授賞したようです。その選評?で評論家氏が「登場人物の喜怒哀楽をバランスよくチャンプルーして」と述べておられました。
なんか、言葉遣いが「安直」な気がするのは、私だけですかね。沖縄以外のネタの作品でも「チャンプルー」とか、言いますかね。正直に言って、沖縄やその表象の仕方と、それをめぐる日本の言説のスタイルとかありようが、「ちゅらさんのときからあんまり変わってないなぁ、と苦笑します。
(了)

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