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表現することの意識
全てが表現ならなぜ身体表現するのか
脳内整理に表現について考えてみる。殊更に表現していると言わなくても全ての事象は表現だし、人は生きている姿そのものが表現だから、わざわざやるのはなぜだろう。
なぜ身体表現するのかと言えばしたいからというのが本音だ。生活動作以外の動きがしたい。不意に手を挙げたり胸を広げたり、背中を丸めたりするのは気持ちいい。体が欲求する。
それだけなら何も人前でやる必要がない。仲間とやる必要もない。どうして人前で表現するのかと言えば交流だからだ。私にとっては言葉よりも広い範囲で空間込みで五感を使い交流できる唯一の手段。
誤解のない嘘のないやりとり。ごまかしの効かない世界と生きている確かな実感がそこにはある。
踊りである必要はあるのか
交流する身体表現というだけならなぜ踊るのだろう。一つには生活動作ではない動きを「踊っている」と名付けるしかないということがある。
私はもはやバレエのパを踊るつもりもコンテンポラリーダンスの手法を用いる気もないけれど、そうは言っても生活行動の目的なく体を動かしている様は踊っているとしか言いようがないのもわかる。
踊りである必要はないけれど他に形容する言葉がない。舞踏と呼ぶ人もいるけどいわゆるジャンルとしての舞踏とは違う。アートパフォーマンスと呼ばれることもある。カタカナばかりだとなんだかつまらない気もする。
知人にマイムアーティストと名乗る方がいる。カッコいいなぁと思うけど、それを見ると私はマイムでもないのだとわかる。
バレエを踊りはしないけど、造形美には興味がある。人の体は立体的で心情が使い方に顕れ、動きに表れる。そこに自分の見出した美を追求していきたい欲がある。
単なる美しさ綺麗さではなく、醜さや矛盾も全部内包した人間の切なさや美を感じるとき、その衝動が体を動かしていく。
万人に伝えようではなく、欲しい人に伝わればいい。たった一人でも見てくれる人の中に欲しい人がいることが私にとっては最上級の幸福だということは確信している。
いつも応援ありがとうございます。サポートしていただいたお礼はアートプロジェクト事業費として創造空間の作成やアーティスト活動、仲間への感謝の気持ちの一部とさせていただきます✨