芸術家は不幸にならないといけないのか
感覚派、衝動派、情熱派
文化的芸術的活動ってそもそもなんだと考えているのですが、それは置いといて一般的にそう思われているものについて考えてみます。
いろんなジャンルの人と一つの作品を作る機会があると、同じではないことに気付かされます。
身体表現する人は体という有限の物体を使うので、どこまでも妄想し続けることは出来ないんですよね。
常に怠け心と向き合いながら体を調整して、尚且つ時間経過していくものは受け入れることが必要で、どこか俯瞰して職人気質です。
衝動や情熱は燃料の火付け役でそれだけで燃やしつくすと壊れてしまうんです。
他の芸術に比べると体育会で脳筋だなと思うことがしばしばあります。
喜怒哀楽の感情爆発を利用するだけでは終わらない
表現活動は基本的には怒りが一番利用しやすい巨大なエネルギーです。気をつけないと諸刃の剣にもなります。
人生が定まり、精神的に満ちた人は芸術活動するエネルギーがなくなっていくのではないかとずっと恐れてきました。これはある意味で真実だと思っています。
けれども、恐れている時点でその人は満ち足りることから離れたところにいるので、活動エネルギーが無くなっていないんですよね。つまり、本当に満ち足りる時は怖がることはないので、どちらにしても気にすることはないんだとわかりました。
身体表現活動するエネルギーを考えている時点で既に答えは出ているってことです。
喜怒哀楽は生きている限り根本的に無くならないものです。私は命そのものへの畏怖が根底にあるので、一生踊りながら生きていくでしょう。
見る人、演る人
人は美しいものを創り出したくて、美しいものを観たくなります。
美しいものが何かは人それぞれだけど、大多数の傾向があります。
新しいもの、古くても丁寧なもの、瑞々しいもの、乾いて軽やかなもの、柔らかく温かいもの、硬くて冷たいもの、光るもの、艶のあるもの、シンプルなもの、ゴージャスなもの、
私は体を使う限り、柔らかく温かいものです。生きているので、古くて丁寧なものを目指しています。
今のところは乾いて軽やかなものですが、もう少し年月が経つと重厚感も悪くないのでそちらを目指せたらいいという気持ちもあります。
艶のあるものにはひたすら憧れています。
シンプルですがこれは地なのでどうしようもない。こうやって改めて見ると、自分の努力でなんとか出来るものって丁寧しかないんですね。
美しいものは美と感じるものであり、綺麗なものではないんです。理想のものということもできます。人の心の不思議を感じています。
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