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the 原爆オナニーズ「JUST ANOTHER」鑑賞

この前の前の日曜日にthe 原爆オナニーズのドキュメンタリー「JUST ANOTHER」を新宿K's cinemaで鑑賞。

「え?バンドやってるんですか?ってことはプロ、目指してるんですか?」と自分がバンドをやっている事を伝えるだけで、いつもこう言われる。これは、バンドマンあるある。インターネットが普及して既にマスメディアがブロードキャストする情報に「?」が点灯し続ける2020年現在、プロという言葉の効力もほぼ無効化されているはずだが、日本には<バンドをやる=プロを目指す>という認識がいまだ根強く残っているように思う。高校~大学でしっかりと拗らせてしまった私には、プロという単語が意味するところが全く理解出来ないのだが、思い返せば20年以上前にバンドをやっていた人は確かに口々に、ジムショに所属することを誇らしげに語っていた記憶がある。なんや、ジムショって。ただの事務する場所やんけ、音楽そのものとは関係ないやんけ(そういえば、あの人たちはどこへいったのだろう)。

そんな俗世とは違う位相で活動をずっと続けてきたthe 原爆オナニーズの1年の記録がこの映画であった。例えば、向こう30年とか50年のタームでこのバンドの存在を振り返ることが出来ること自体も意味のあるところだが、私が興味深かったのは大石監督(というのは気恥ずかしく大学のバンドサークルの後輩だが、それはさておき)が原爆オナニーズのメンバと対峙することで、自分の問題意識を結果として作品に表出させていたことだった。何故働きながらバンドやり続けているのか。事実を照射しつつ、自分の問題意識を介して、ちゃんと観客との橋を渡した(ドキュメンタリー作品を作った)ことに素直に感動してしまったのだ。つまり、これは原爆オナニーズのドキュメンタリーだけども、ちゃんと監督(撮り手)のドキュメンタリーでもあった。

私が好きなドキュメンタリーは原一男、森達也のような所謂スケベなドキュメンタリーである。「カメラが現実に介入する事で変容する現実」の面白さや撮り手の主観性(ドキュメンタリーは客観性など担保する事は不可能であり、結局、現実を恣意的に切り取って提出することしか出来ないという健全な開き直り)が基本的にはあるのだが、このドキュメンタリーに関しては、ずっとポリシーを持ってやって来た筋金入りのパンクバンドを前に監督は結果、寄り添うことしか出来ない。そもそもthe 原爆オナニーズはカメラが入り込むことで変容するような類のバンドではない。しかし、その関係性においてこそ、バンド活動の豊穣性や葛藤がストレートに表現されていたし、監督の問題意識を映像からちゃんと溢すことに成功したのだと思う。

バンドを取り巻く物語として、言ってしまえば、どこにでもある所謂<バンド物語>で、目新しいものは何もない。首謀者のカリスマ性と高い意識、後から入ってきたメンバーへの期待とギャップ、バンドマネジメントの考え方、家庭とのバランス、バンマスに身を委ねるメンバー等々という切り口(言わずもがなthe 原爆オナニーズはうんこが無限に漏れ続けるくらいカッコいいバンドだ、ということは念のため言っておく)。そのバンドの特別性とは、そのバンドをやり続けたメンバーとそのバンドに関わる人たち(今池まつりの観客等)がこっそりと心の底に振り積もらせる重厚で決して揺るがない澱のようなもので、各々の中に確固として蓄積していくものだ。その澱を起点に他の誰かに波及していく物語は、誰かがひとつのことをやり続けることによって、初めてスタートが切られる。それがやり続けることの素晴らしさなんだと、この映画は見せつける。

それにしても、最後の今池祭りのシーンは最高だった。それは<みんな、ライブを観てノリノリでニコニコしていた>などというありがちな、ローカルでアンダーグラウンドなバンドが、実はより大きなコミュニティーを創出できる力を持った音楽だったのだ、などという世間に見落とされていた価値のご紹介などではなく、耳を塞ぐ人、眉をひそめる人、何も感じずただ立ってる人をも前に置きながら、同じ場所に立ち続ける悲壮感のないバンドの凄さだった。私が感動したことは、自分は今、ここに居て、ここに居る自分を社会に開いていくという順番を決して変えずにバンドをやり続けるという強い意志と、やり続けているという頑然たる事実だった。私にとって、それをパンクと呼ぼうと思ったのだった。

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