見出し画像

ジェルマン・シエラ『超越的可塑性』「1肉体舞踏」(訳・幸村燕)

Germán Sierra: METAPLASTICITY / ŠUM#12

  http://sumrevija.si/en/german-sierra-metaplasticity-sum12/



一章Fleshdanceの翻訳である。

ジェルマン・シエラはスペイン在住の作家であり、神経科学者である。スペイン語で6冊の小説を執筆し、英語では『The Artifact』と題した1冊を2018年にInside the Castleから出版している。

超越的可塑性

1.肉的舞踏

 成虫は幼虫のときにどのようであったかを覚えているだろうか。ジョン・カーペンターの『遊星からの物体X』(1982)(訳者注・『遊星からの物体X』の原題はThe Thingであり、エイリアンの物体もThe Thingであるため、この論文ではThe Thingを物体Xと『遊星からの物体X』と訳し分けた)ようにもし原型があったとしても、一連の形状変化は数え切れないほどある前の姿のすべてから記憶の痕跡を留めているのだろうか。科学と一般的知識の両方が主張するように、もしたとえ多くの形状変化をへることで「主観的な経験」または「人格」を失うかもしれないにしても、(注1)いくつかの特異的、または集合的な形状変化をする生物的にテクノロジカルな存在は変態を通していくつかのベースライン的な情報を保持していなければならない。つまり、系統発生(遺伝子学、解剖生理学、または社会学)的記憶の中で回復力のあるいくつかの痕跡は、全ての発達の段階では作用しなかったり完全には作用しないかもしれないけれども、その痕跡によって、「個性」(つまりは偶然の足跡)をある程度維持しながらも、特定の分類群の一員として識別が可能になる。無脊椎動物の場合では、情報の流れは各検体の一生の間に繰り返される内分泌のサイクルとして容易に概念化でき、更にDNAのシークエンスに刻み込まれ、生殖に接続され、時/空を超えてループし続ける遺伝子のネットワークにおける活性化/不活性化のプログラムとして表現される。(注2)

 生命の変化はゆっくりで複雑に見える。直線的で、加速させられた滑走路は生の混沌の確証のように珍しく、その凄惨さによって私たちを打ちのめした。私達は以下のことを考えうる。カーペンターの映画でのエイリアンの仮想的な円環のとても刹那的な瞬間ーさらに強くなり、さらに人外になる存在へと転じるかもしれない寄生体の段階ーを目撃しているかもしれないのだと。しかし、私達はこうも考えうる。円環などないのだと。つまり、物体Xは異なる存在への適切なメタモルフォーズを実際には一度も経験しておらず、それも永遠に続くということ。進行中の寄生体(宿主が感染してもなお消滅しない寄生体/宿主の論理ー悪魔的所有の叙述の再生産ーでもなく、『ボディースナッチャーズ』(監督/アベル・フェラーラ)(1993年)の中で描かれる種の置き換え計画の一部分でもない)としてではなく、連続して仮面を変える変化しない捕食者としてである。したがって、それの自然な形態は変化の間に現れている不快で不定形な塊である。つまり多様で相反する形態による不定形な具現化への可能性である。

 物体Xは形態の欠如のためではなく、最も根本的な変化を通してその「宇宙的唯一性」が自身を保持しているというとても強力な形態をもっているために何にでもなりうる。ディラン・トリッグによると「この映画の中の惨めなクリーチャーは生命の起源そのものの表現の一部である。つまりその体は構造的には疎外された(=エイリアン的な)主観性によって構築されているだけではなく、主題的には匿名の目的論によって構築されていると見ることができる。それはつまり宇宙の起源は人間性を構築するものであると同時に人間性に反抗するもであるということだ」

 目的を持たず、制御不可能な自己再生的内外技術である物体Xは頻繁に資本主義と人新世のメタファーとして解釈される。例えばダニエル・ロークは「世界そのものは常に人間という生物の物体X的な恐ろしさに包含されている。なぜなら、来たるべき「私達無き世界」、つまり不毛となりそして物体X的な人間文明のガラクタに完全に置き換えられた惑星でさえその地質学的な記録の中に人類という種が自らをあらゆる世界の「中の」物体X(=Thing)として考えるずっと以前に遡る人間の活動の痕跡を書き込むからだ」(注5)同じ思考回路によって、マーク・フィッシャーは物体Xも資本主義も「怪物的で、無限に可塑的な存在であり、接触したものを代謝し吸収することができる」と説明する。(注6)

 物体Xは何も想像する必要がないために、想像を超えた変化をすることができる。それは純粋なパフォーマンスと偶発性(単体の存在なのか、それとも群れなのか、あるいはその両方なのか)である。それはどんな生物でも、特定の固体に関する認知的特徴でさえも取り込む。つまり、「物体Xは細胞から細胞へと完璧にコピーするのでその結果、シミュラクルはオリジナルのように話し、行動し、考えることさえする」(注7)ということである。エイリアンの操り人形になることほど還元的唯物論に適した議論はない。つまりダニエル・ロークが「物体Xは人間の生命以外のものを「生み出す(プロデュース)」するのか、あるいは人間の生命をそのまま「再現(リプロデュース)」するのか。そしてその違いがあるとすればそれはなんなのか」(注8)と問うているような議論のことだ。物体Xは何かに変身するのではなく、それ自身から変身をする。「それ自身の実体を持たず、ましてや識別可能な外見を持っていない物体Xは、単に他の生命体を複製するのではなく、同化のプロセスを開始する際に積極的にそれらを否定する。」(注9)それは人間を選り好みせず、そしてそれを恐れ、期待し、なんとか選ばれたいと思っているのが、私達人間なのである。

 しかし別の見方をすれば、形式的な流用の間に現れる原形質的無定形性は物体Xの「本来の姿」ではないのかもしれない。そうではなく、ある形から別の形への再-形成の過程で生じる肉のつかの間の状態(突然の肉の閃光)、すなわち「外的刺激の運動と内的放棄の運動」(注10)の周囲に組み立てられた形式的変態の光景なのかもしれない。「これが体である」とトリッグは説明し、「私達が言語が物質性を全体として組織化する手段を欠いている内的身体性として、状態の間に挟まれ、その醜い発生の中にそれを見つけだすというように」(注11)と述べている。もしそうであれば、物体Xはそれ自身の形を持たないことになる。もしかしたら、最初の変身の後に失われたオリジナルの古代の形があるのかもしれないし、オリジナルは存在せず、そして歴史的に拘束されず意味の無い予見不可能な変化の可能性と同じところからその存在が始まっているのかもしれない。この場合私達は物体Xを単に過形成性的存在として考えることができず(注12)、むしろ連続的な超越的可塑的(非)具象化の例として考えることができる。超越的可塑性は可塑性を飲み込んでおり、だからこそ物体Xは本質的に無定形・非晶質ではなく、形態論的なものであるため、「壮大な擬態の力を持つ」(注13)可塑的な生物にしか変身できないように見える。実際、私達はそれが他の生物を複製できることは知っているが、しかし物体Xが自分自身を複製する能力を持っているかどうかわからない。ジョン・W・キャンベルの1938年の小説『影が行く』(訳者注・『遊星からの物体X』の原作)や『遊星からの物体X』より前の1951年の映画化では、エイリアンは「植物の進化形態」とされていたがそれと違って、カーペンター版では哺乳類を決定的に好む、完全に超越的全動物形態保有存在(訳者注・原文ではallozoomorphicとなっておりallo-が連結形で「他の」「異形の」の意を持ち、語根としてalには「…を超えて」「…の向こうに」という意味がある。そしてmorphicが「…の形態を持つ」という意味を持つ連結形である。ここではあらゆる動物の形態を超え全動物に通底する形態を持つものとして訳した。)と思われる。そのため、物体Xは特異な自動演奏作品;ランダムに宇宙を横断し、自分自身であり続ける可能性を奪われた、自己増殖のためのメカニズムを持たない完全に生物学的に自動化された存在として考えることができる。生物はその形態を拡大し再生産するために環境を自己に変換する。しかし、物体Xは与えられた形態を利用するときに形態形成を行っていない。つまり、それは自信を何かに、あるいは何かを自身に変えるのではなく、実際には形態の関連性と「なること(becoming)」の慈悲深い普遍性を蝕んでいるのである。ブラシエは以下のように述べている。

「なること(becoming)」の形而上学的優位性を確認することは物事が変化しないことはあり得ないと主張することである。つまり、物事が同じであることは不可能であり、それゆえ物事が変化し続けることが必要であると主張するのである。こうして、絶え間なく続く「なること」の流れは不変の「静止」と同様に不可避であり形而上学的に必要であると考えられる。しかし、形而上学的必然性とはそれが永続する流動であれ、永久の固定であれ、まさに絶対的偶然性の原理が排除するものである。「偶然性の必然性は、存在の固定を揺るがしうるのと同じように恣意的な気まぐれをもって、「なること」の流動性を中断することができる絶対的な時間を意味する」とメイヤスーは主張する。絶対的な時間は、必要な存在の生産でない限りは不可能なものはない「ハイパーカオス」に等しい。(注14)


 物体Xの超越的可塑性は可能性の空間を開かず、そのアナーキーな軌道の空虚な追放の中に可能性の空間を閉じる。(注15)それは形態空間を探求するのではなく、気まぐれに「なること」の流動を中断し、そして空間形態の可能性を阻むのである。それはあらゆる可能な形あるいは不可能な形の決定的な魅了者(あるいはブラックホール)として作用することで、全体的な整合性の平面を固定し、無秩序-時間と秩序だった形が量子的同時性の中で折り重なり共存する思弁的宇宙への扉を開く。物体Xが存在する以上は、あらゆる存在する形も存在しない形も物体Xに提出される。物体Xは形成されない装置として機能し、「言語を回避し、主観性を再形成し、そして最終的には最も身近なもの、すなわち身体としてそれ自身を確立する身体としてそれ自身を確立する」(注16)抽象的なフーガ状態、つまり形式からの最後の出口を作り出す根本的な開放性を押し付ける。

 形態の抽象化は教義、すなわち語源的にはマイナーな形態である。私達の場合は、それは偶然的な変形と肉体の忌まわしき創造のための錬金術のレシピである。粘土や泥は、肉の原料には適さない。全ての肉体創造機械は血まみれの犠牲を必要とする。つまり情報では十分ではない。映画の中の人間は一般的な伝染病に対するように物体Xに反応し、何千年もの間、ペストの蔓延を防ぐのに適切と思われていた地理的隔離の原則を適用しているのだ。だが、物体Xは典型的な感染症や寄生虫のような振る舞いはしない。それは誰もが知っている場所に潜んでいる。おそらくそれは、「これまでになされたことのない方法で生命を行う」(注17)(注18)難解プログラミング言語として見るほうが良いだろう。「それを有効的に使う唯一のもの、ショゴス(訳者注・クトゥルフ神話に出てくる架空の生物)を召喚する運命の再生的変則化、自然がそれの前に歪み、そして溶解する無限の可塑性の暴走の暴走のために。物体Xのために。資本主義のために」(注19)生命を再分配しようとする。


[1] MONCEAU Karine, MOREAU, Jérôme, RICHET, Julienne, MOTREUIL, Sébastien, MORET, Yannick, DECHAUME-MONCHARMONT, François-Xavier, “Larval personality does not predict adult personality in a holometabolous insect”(幼虫の性格は成虫の性格を予測しない), in: Biological Journal of the Linnean Society, 120, 4/1, 2017, pp. 869–878. In biology, “personality” is defined as “consistent inter-individual differences in behavioral traits across time and/or contexts”, while “suites of correlated personality traits” are often referred to as “behavioral syndromes”.(生物学において、「性格」は「時間および/または文脈を超えた行動特性における一貫した個体間差異」と定義され、 一方、「相関する性格特性の組合せ」は、しばしば「行動症候群」と呼ばれる。)

[2] CHAFINO, Silvia, UREÑA, Enric, CASANOVA, Jordi, CASACUBERTA Elena, FRANCH-MARRO, Xavier, MARTÍN, David, “Upregulation of E93 Gene Expression Acts as the Trigger for Metamorphosis Independently of the Threshold Size in the Beetle Tribolium castaneum”, (甲虫コクヌストモドキ におけるE93遺伝子発現の上昇は、閾値サイズによらず変態のトリガーとして作用する。 )in: Cell Reports, 27, 4, 2019, pp. 1039–1049.

[3] ROURKE, Daniel, The Noise of Becoming: On Monsters, Men, and Every Thing in Between, 2017


[4] TRIGG, Dylan, The Thing: A Phenomenology of Horror, Zero Books, 2014.

[5] ROURKE, The Noise of Becoming.

[6] FISHER, Mark, Capitalist Realism: Is There No Alternative?, Zero Books, 2009, p. 9.

[7] TRIGG, The Thing, p. 138.

[8] ROURKE, The Noise of Becoming.

[9] Ibid.

[10] MOHAGHEGH, Jason Bahbak, Omnicide: Mania, Fatality and the Future in Delirium, Urbanomic, 2019, p. 240.

[11] TRIGG, The Thing, p. 139.

[12] RODEN, David, Posthuman Life: Philosophy at the Edge of the Human, Routledge, 2014, p. 101.

[13] MOHAGHEGH, Omnicide, p. 384.

[14] BRASSIER, Ray, Nihil Unbound: Enlightenment and Extinction, Palgrave Macmillan, 2007, p. 68.

[15] MOHAGHEGH, Omnicide, p. 239.

[16] TRIGG, The Thing, p. 146.

[17] TEMKIN, Daniel, Esolangs as Experiential Art, ISEA2015 proceedings, 2015.

[18] LAND, Nick, Fanged Noumena: Collected Writings 1987–2007, Urbanomic, 2011, p. 628.

[19] Ibid.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?