見出し画像

強烈な暴力の気配を漂わせる男が「これを持て」その写真を撮られた私は、禁錮10年の有罪にされた

「この横断幕を持て」と警察署で言われ、従うと写真を撮られた。それが禁錮10年の判決を受ける証拠とされてしまった――。
ミャンマーで治安当局に拘束され、約3か月半後に解放されたドキュメンタリー映像作家の久保田徹さん(26歳)。きょう(11月29日)日本記者クラブで開かれた会見で、拘束から解放までの生々しい経緯を語りました。通常のニュースではほんの一部しか伝えられていないので、獄中や取り調べの実態、ミャンマーの今の姿など、語った内容全てをこの記事でお伝えします。

あれ?「思ったより静か」その裏で……

7月14日に、タイ経由の飛行機でミャンマーに入国しました。私にとっては3年ぶりのミャンマー渡航で、クーデター以降では初めて。観光ビザを使いました。

目的はヤンゴンで慈善活動などを精力的に行っているある人物についてのドキュメンタリーを制作すること。彼と私は4年以上の付き合いがある友人です。他の多くの友人たちが国外に逃れざるを得なくなった中、彼がなぜ残るのか、その理由を知り、伝えたい。彼の姿を通じて、今もミャンマーで生きている人々の窮状や現実を伝える必要があると思いました。ミャンマーに関する報道が少なくなっている中で、私の中では重要なことだったのです。

3年ぶりに訪れたヤンゴンは、初めは「思ったより変わっていないな」という印象でした。これまで報道されていた目に見える衝突がなく、人々は静かに暮らしているようにも見えたからです。

しかしそういった静寂が見せかけのものに過ぎないことが、取材を始めてすぐにわかりました。

日本記者クラブでの会見に臨んだ久保田徹さん

例えばフェイスブック上で国軍を批判する投稿をしただけで逮捕され、半年間、獄中で生活したと話す青年。路上生活者で物乞いをして暮らしている女性は、警察に暴力を振るわれ、持っていたわずかばかりのおカネを奪われてしまったと泣きながら訴えました。そのような現実がある中で、ヤンゴンが表面上は静かに見えることが非常に奇妙に思えました。

声を上げたくても上げられない人たちがたくさんいる、ほとんどの人がそうであるという現実を目で見たのです。

突然、後ろから来た車 銃を持った軍人が飛び出してきた

そこで自分は「デモを撮影する必要があるのではないか」と考えるようになりました。

デモは現在、場所と時間を事前に告知して行うことはできません。すぐに逮捕されてしまいますし、2021年12月にはデモ隊に国軍の車が突入し、複数人が殺傷される事件が起きています。

2021年5月 撮影:Saw Wunna/Unsplash

そのため、デモは時間と場所を告知せず、限られた秘密のネットワークで組織し、ゲリラ的、突発的に行われています。それは「フラッシュデモ」と呼ばれていました。

その現場に行き、通行人のふりをしてデモ隊の20~30メートル後ろから撮影。わずか30秒ほどのデモで、終わるとすぐに彼らは駆け出して逃げていきました。

私はそのまま通行人のふりをして、デモ隊と反対方向に向かって歩き出しました。すると、すぐに後ろから車がやってきて、それに気づいた時には車から銃を持った軍人2人が飛び出してきました。私に銃を突き付け、大きな声で叫んでいます。

膝をついて両手を上げて……彼らの言うとおりにするしかありません。銃口を突き付けられていた状態で、腕を前にして手錠をかけられ、車の中に押し込められました。

その時していたマスクを目にかける形で目隠しをされました。外の様子が全く見えません。隣に座っていた軍人に、持っていたもの、カメラの機材など全てを床にぶちまける形で押収されました。何か大きな声で叫び続けていて、両手で頭を強く押さえつけられ、伏せた状態にされました。

途中で、なぜかその軍人の態度が豹変しました。「Sorry,Sorry」と言いながら、頭をなでるような対応をしてきたので、気味が悪いと……もしかしたら、その前に誰かと電話をしているようだったので、捕まえた外国人にはとにかく手荒な真似をするなと言われ、そんなふうに態度が変わったのではないかと、今では考えています。

警察署でデモ参加の「証拠」を捏造される

そのまま警察署に連れていかれました。7月30日のことです。

取り調べといっても、初日はほとんど写真を撮られ続けました。入れ替わり立ち替わり多くの警察官と軍人がやってきて、正面や横顔の写真を何度も繰り返し撮り続けます。それぞれのスマートフォンで撮影していたようで、私は「まるで彼らは、釣りあげた獲物の魚拓をとっているようだ」と、魚拓を取られているような気分になりました。

その時に初めて、私を取り押さえた人物などの顔や姿が確認できたのですが、彼らの振る舞いや目の奥に潜んでいるものから、非常に強烈な暴力の気配を感じました。具体的にどう言ったらいいか分からないのですが、これまでいろいろなSNSなどを通じて見ていた、拷問などをするミャンマー人たちの振る舞いが目の前に……そのような暴力の気配です。

写真を取られ続けられる流れの中で、「外に出ろ」と言われ、ある写真を撮られました。
他の3人のデモ参加者とともに、「この横断幕を持って立て」と言われ、写真を撮られたのです。(以下の写真を参照)

この写真がのちに、私がデモに参加し、それを扇動した罪の証拠として使われました。そのことは後で知りました。

警察署に初めて行った時には、写真の3人と私を含めて全部で7人いたと記憶しています。報道によると私と3人が逮捕されたことになっていたのですが、他の3人がどうなったのか、分かりません。

7人のうち1人と話した時に、彼は「ただの通りすがりだった」と話していました。デモに参加したわけではないことが確認されればすぐに解放されるだろうと。だから、逮捕された現場では、そこにいた人をとにかくほとんど拘束したんだと気づきました。

「これからお前が行くのは地獄だ」その意味が分かった

31日にかけての一晩は、所長室で寝かされました。エアコンの効いた警察署のトップの部屋で寝かされるのは、好待遇を受けていると感じました。

しかし翌日の取り調べ中に、彼らは私への敵意を顕わにするようになりました。

彼らが私の名前をフェイスブックで検索し、私の映像を発見したのです。それはミャンマー語のオンラインメディアに掲載されていた「Empathy Trip」というロヒンギャに関する短編ドキュメンタリーで、それをシェアする投稿から見つけたようでした。

Khit Thit Mediaのフェイスブックより

映像を発見してから彼らは、私を小突きながら「お前の映像を見ると虫唾がはしる」というようなジェスチャーをして、「どこからおカネをもらって作ったんだ」とも聞かれました。同時に「これからお前が行くのは地獄みたいなところだ」とも。臭くて汚くて、人がたくさんいる場所だと。その時は、彼らが言っていた意味は分からなかったのですが、その時点で取り調べは終わった模様で、留置所に連れていかれました。

それから8月4日までの間は留置所で過ごしたのですが、実際に留置所の環境はとてもひどく、「地獄のような場所だ」という意味が分かりました。およそ2メートル×5メートルの空間にトイレがあるだけ。そこに20人以上がいました。日の光も全く入らず、ほこりが天井や壁にびっしりとこびりついていて、空気も非常に悪い。

取り調べから留置所にいる間は、出された食事には手をつけず、「大使館と直接、連絡が取れるまでは食事をしない」と警察官に告げていました。解放されてから、「ミャンマー料理が口に合わないので食事をしていないようだ」という旨の報道がされていたと知りましたが、事実ではなく、ハンガーストライキをしていたのです。

多くの政治犯を収容 インセイン刑務所の実態

8月4日にインセイン刑務所に連れていかれてからは、拘束が長期化すると思ったので、5日の朝から食事を始めました。

入れられた外国人用の独房は12あり、1つが空いていたので私を含め11人が過ごしていました。日中の限られた時間は共用スペースに出られます。広さは端から端までちょうど50歩で、運動をしたり、ウォーキングをしたりして、日を浴びることができました。

久保田さんが獄中で描いた独房のブロックのイメージ。手記を書き続けることで自分を保つことができ、のちに記録としても役立ったという

他の10人の囚人は政治犯ではなく、麻薬の密輸入に関わった罪で逮捕された人々で、非常に良くしてくれました。

独房の暮らしは他のミャンマー人の囚人と比べると遥かにいい状況だと知らされていました。もちろん、ここも鉄格子があるだけで雨風も入ってきますし、ハエやゴキブリやアリがたくさん出たのですけど、それでも自分のスペースがある時点で遥かによかった。通常は100人から200人ほどが大部屋のような場所に押し込められ、共同生活を強いられているということです。

その分、私が入れられていたエリアは、セキュリティが厳重ともいえます。他の囚人との接触はほとんどできず、ここから出ないよう、警戒されていました。

それでも限られたタイミングで他の政治犯が話しかけてくることはあり、その時は「日本に帰っても、必ずミャンマーのことを伝え続けてくれ」と色んな人から何度も言われたのを覚えています。

10月には刑務所で爆発事件があり、音は聞こえました。2回に分かれての爆発で、かなり大きな鈍い音が響いたので、爆発物だと思いました。ただ、事件の影響といえば、差し入れができなくなったり、裁判への出頭もしばらくできなくなったりしたぐらいでした。

実は刑務所の中にいても、爆弾や銃撃の音というのは頻繁に聞こえています。1、2週間に1回ぐらいは夜中にパパパパッという銃声や爆発の音は聞こえ、周りの囚人に聞いてもやはりクーデター以降は頻繁に聞こえるから、もう珍しいことではないと。それでもセキュリティは厳しいので、明確な恐怖感は感じていませんでした。

軍事法廷では20代の女性たちにも次々と判決が

軍事法廷で裁判が行われたのは、10月5日のことでした。

その日は他の十数人の囚人とトラックに乗せられ、わずか5分のところにある裁判所に連れていかれました。「弁護士を呼びたい」と言いましたが、「軍事法廷には呼べない」と。

そこは軍人3人が目の前に立っている薄暗い部屋でした。真ん中の軍人が怒鳴るような大声で何かを読み上げていて、通訳がそれを私に伝えました。一回の読み上げごとに2、3分かかるような長い文章でしたが、通訳は明らかに不十分で、ごく一部を簡単な文章で訳すだけでした。

それによると、私がデモに参加し、横断幕の文字を書いたと。人々を惑わす映像を投稿し、ミャンマーの印象を非常に悪くした、というようなことを告げられました。「付け加えることはあるか」と言われましたが、「ない」と伝えて、その場で禁錮7年の判決を言い渡されました。

反論しなかったのは、反論する余地がないと感じていたことが一つ。また、大使館とは連絡が取れていて、交渉が進んでいるから、まず判決が早く出ることを第一にすべきだと聞いていたからです。その前提で、反論することで判決が長引くよりは得策だと判断しました。ただ、さすがに禁錮の期間が予想より長かったので、頭が真っ白になりました。

丸一日、他の十数人の囚人と一緒に軍事法廷にいて、一人ひとり判決を言い渡されて戻ってくる形です。他の囚人の多くは政治犯で、若い人たち。20代前半と言っていた女性も3人いて、判決を言い渡されて泣いていました。

ある人に私が7年だったことを伝えると、「自分も7年だった。がんばれ」などと言われました。若い人たちが自分の判決を伝えあっている姿は異様な光景であると同時に、彼らの強さとミャンマーの非情な現実を表していると思いました。

判決が言い渡されてからは、囚人服の着用を義務付けられ、髪をかなり短く刈られました。

解放されていない人たちがいる

次の週、10月12日に再び裁判に呼ばれた際には、「足かせ」を付けられました。鍵などをかけるのではなく、トンカチのようなもので打ち付けて固定するので、絶対に外れない。見たこともない形状です。歩く時には体を屈むようにしなければならないので、これを付けてジャラジャラと歩く囚人たちの姿は、屈服しているような印象を強く与えるものだと思いました。

描かれているハンターネインさんは、1年半以上獄中に。絵はやはり拘束されていた米国籍のジャーナリスト、ネイザーさんから提供された。

この状態で裁判所に連れていかれ、入管法違反で禁錮3年の判決を受けました。軍事法廷ではなく、通常の裁判で弁護士もいたのですが……。

解放されたのは11月18日の朝8時ごろ。看守数人がやって来て「解放だ」とあっさり言われたのです。「とにかく急いで出ろ」と言われたので、数分の間に荷物をまとめ、他の囚人たちにありがとうとお礼を伝えて、すぐに出ました。

解放への働きかけをしてくださった支援者の方々、大きく報道してくださったメディアや関係者の方々、またそうした働きかけを受け、各方面からミャンマー国軍に粘り強く交渉をしてくださった日本政府関係者の方々にも改めてお礼を申し上げたい。 

中でも在ヤンゴン日本大使館が粘り強く交渉してくださったことは、非常に大きかったと考えています。丸山大使をはじめとする大使館職員の方々には、本当にお礼を申し上げたい。大使館職員の方々は拘束中、日本からの本や食べ物、家族から送られたものを頻繁に差し入れてくださいました。大使館側の交渉で電話をする機会も得たし、状況の説明なども可能な限りしていただきました。

解放された時に空港で大使と大使館職員の方々が出迎えてくださり、そこで私も彼らの仕事に感謝を申し上げました。「非常にご迷惑をおかけしました」と言ったのですが、「とんでもないです。これは私の仕事ですから」というふうに言ってくださいました。

羽田空港では記者会見が控えていました。そこでの受け答えに関しても、「何も日本政府のことを気遣う必要はないです。あなたの好きなように言ってください」と。その時、自分が民主主義、発言の自由がある国に戻ってきたという実感が沸いてきて、とにかく安心しました。

密かに託されたメッセージとは

実は他の政治犯との接触はほとんどできなかったのですが、拘束されている間にメッセージを受け取っています。どのように入手したかは言えません。書いた人物の個人情報を隠すために、一部加工をしています。

「抑圧された市民のために、また全ての人々の自由のために、革命に参加した。ミャンマーで必要とされている正義と人権、民主主義のために、皆さんの協力を希望します。革命万歳。
 日本のみなさんへ。ミャンマーの人々の味方をしてくださり、ありがとうございます。
 君が革命をしなければ、誰がするのか。
 革命万歳。
 一刻も早く革命を終えたい。
 この革命はすぐに勝てるに違いない。絶対に勝つ。
 ミャンマーの人々を代表し、すぐに革命が成功することを願う。助けてください。ずっと覚えています」


久保田さんが託されたミャンマーの政治犯からのメッセージ

読むと分かりますが、彼らも非常に追い詰められている。クーデター直後に平和的に訴えてきた人々も、通常のデモをしているだけでは自分たちが殺されていくだけだと。そのような思いをメッセージから感じます。

私の体験を通じて、ミャンマーに目を向けてほしいというのが私の願いです。人権団体の調査によると、クーデター以降これまでに2500人以上の市民が殺害され、1万6000人以上が逮捕され、そのうちの1万2000人以上が未だに 不当に拘束されています。

私は解放されましたが、1万6000人のうちの一人にすぎない。未だに不当に拘束されている人々、ミャンマー国内にいても声を上げられない人々の代わりに声を上げる義務があると思っています。自分ができることを今後も行っていこうと。

私たち日本人にできることとは

最後に獄中で会った人の話を。彼の名前はテインダンさんといいます。日本育ちのミャンマー人で、映像作家です。1年半以上、ミャンマーで拘束されています。私が彼に会ったのは、獄中で彼が私の通訳として働かされていた時でした。私が大使館経由で電話する機会をもらった時に、彼は必ずそこにいて、日本語の会話を記録用にビルマ語に翻訳させられていました。

テインダンさん ジャーナリストの北角裕樹さんによると、6歳の頃から父親の都合で日本に。民主化の流れによってミャンマーと日本を行き来して仕事をしていた。2021年のクーデターでもカメラを持って町を撮影。その後、当局に追われるようになり逮捕された。北角さんと同じ事件で起訴されたが、日本人である北角さんは解放され、彼は有罪判決を受けた。軍の施設では拷問を受けたという。

電話をかけるたびに定期的に会うことになったわけですが、精神的にも波があるようでした。ある時は「自分は全然大丈夫だ。思ったより時はすぐに過ぎるよ」と言っていましたが、その次に会った時には「そろそろ限界ですと、日本に帰ったら伝えてください」と。

彼は獄中での大きな心の支えでした。日本語で会話ができるだけでなく、自分が大変な状況にある中、私のことを常に気にかけてくれました。彼が持っていたミャンマーの伝統的な着物であるロンジ―を分けてくれたり、日本語の本を贈ってくれたりしました。彼との定期的な会話のたびに、勇気づけられたのです。

ミャンマー国軍の、自国籍の人と外国国籍の人の対応、扱いは明らかに違います。今回の私の解放の経緯が、恩赦という形で国際社会に大きなアピールとして使われたという事実からも明らかだと思います。国軍の思惑としては、外国人の政治犯、囚人は、一つの外交的なカード。テインダンさんのよな日本の永住権を持っているのに日本国籍を持たない人に関しては、国軍も罪状としては同じであるにも関わらず扱いがひどくなり、長期の拘束になる。だからこそ、国際社会はミャンマーで暮らすミャンマー人の安全のために声を上げ続ける必要があるし、今回の解放でミャンマー国軍が軟化したと考えてはいけないと思っています。

私たちができることとして、まず一つは難民となった人たちを受け入れるよう働きかけていくことです。受け入れを積極的に行えるよう枠組みを整備する必要があります。また日本とミャンマーは経済的に非常に強いつながりを持っている。そういった資金が国軍に使われていないか、常に厳しい目でチェックを。日本の国会では、すでに民主的政権の樹立と、民間人の虐殺の停止、不当な拘束者の解放などを訴えかける声明を衆参両院で出しています。その決意表明に即して行動していくべきではないのかというのが私の意見です。

ドキュメンタリストはどう活動するのか

ミャンマーに関していうと、今後の取材は非常に難しい。一方で政治的なものから距離を置いて撮影をすることは可能だと思います。人々がどういう暮らしをしているのかを撮影することは。

ただ、ジャーナリストビザをミャンマーで取れば常に監視がつきますし、それによって取材をした相手が拘束される可能性が高くなってしまう。そもそも、まずビザが下りる可能性が低い。下りたとしても監視が付く、協力者を危険に晒すという中で、正規ルートでの取材は難しいのではないか。

一つの方法としては現地のジャーナリストに頼む方法もありますが、そのジャーナリストが逮捕された場合には、頼んでいた側は責任が取り切れない。私たちは彼らの安全を第一に考えなければなりません。

もう一つは、タイのメーソートなどにミャンマー人が亡命して暮らしています。彼らの安全を守って彼らのストーリーを聞いていくことは重要だと思います。気を付けなければならないのは、タイは難民条約も批准しておらず、タイにいてもすごく不安定。タイ政府から逮捕されることもある。取材活動はやはり難しい。

私自身でいうと、ドキュメンタリー映像作家として生きている人々の姿を多角的な方法で伝えていくという意味で、必ずしももっと違った角度から伝えていくことができるのかなと思っています。

2022年11月29日
取材・執筆 熊田安伸