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勇退指南

「来年の3月で、終わりにしましょうね」
義母が呪文のように言葉の端々にねじ込む。
「うん………」と、まだ実感のわかぬ義父は、
バイデン大統領より2つ年上の83歳だ。

地元中堅企業の敏腕営業マンだった義父は
お家騒動に巻き込まれた事から自ら進路を変えた。
中小企業診断士や技術士の資格を武器に
医療関係の企業で経験が認められ、
現在もなおコンサルタントとして活躍している。

「願わくば生涯現役でぽっくり逝きたかった」と
先日の心臓の血管へのステント追加手術後、
退院して帰路につく車の中で呟いていた。

夢の生涯現役。
実際は実務や客先への影響を考えると
なかなか円満に実現させることは難しい。

恒例の花火を見上げながら、
大きく花開くように輝いて、
その火花が長く空に留まりながら
ゆっくりと枝垂れ落ちていくような
人生にしたければ、勇退するのがいい。

「3月末で、おしまいにしましょ、ね!」
義母の声が、これでもかと念を押す。

術後3日目にして、大阪出張の予定がある。
更には8月内に関西方面の別の地にも
出張する予定があり、
その話をしたことで、
専門医から手術の提案があったのかもしれない。

旧ステントの先の血管は、9割塞がっていた。
造影剤で撮影した画像では、
術後に見事開通した血管が写っていた。

つい先日、
市内の老朽化した水道管が破裂して
地域に断水が起きたという記事があったが、
まるで人の体のようだと思った。
義父の血管も、毛細血管に詰まりが見られ、
またどこかの血管が塞がる可能性は
十分考えられる。

3月末に急逝した知人の80代男性にも
ステントが入っていた。
検査で異常なしと言われて間もなく
春先の明け方に心筋梗塞を起こした。
新しいステントが入った義父も、
九死に一生を得た後の油断は禁物だ。

自力で隣接県から都内の病院に電車で向かい、
胸の痛みに耐えながら検査に向かったのは
絶妙なタイミングだった。
出張先で倒れても、本望とばかりに
予定を変更することなく手術に挑めたのは、
よほど仕事に愛されているのだろう。

「お仕事が納まったら、自伝を書いてみては」
と義父に声をかけたが、返事はなかった。
義父の母親が義母にワープロ打ちや製本をさせてまで
自伝を遺しており、その恩恵で私は義父の母親の思いに触れることができた。義父本人は自伝を遺すなど、想定もしていなかったのかもしれない。

先述で急逝した知人の男性も、まさかこんなに早く逝ってしまうとは、と奥様が驚き嘆いていた。
いつかは迎える最期の時も、油断すると向こうからやって来てしまうのが今のご時世だ。

随筆蕗の会へのお誘いはまだ打診していないが、
何らかの足跡を残してはどうかと思う。
義母の遺した冊子の表題は、「一筋の仄かな光」であった。義父の栄光の日々は余韻となっても、
その残光はまだまだ眩しい。

追記。
愛猫まめ、10歳。
義父の仕事机から物を次々と落とし、
勇退を促している。

※蕗 360号 掲載記事 ※


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