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書き手とは?

書き手とは?

功利的に物事を考えると、役に立つかどうか、あるいは儲かるかという基準で価値判断することになる。

生きていることの不思議、あるいはこの世の不思議は功利的にはどうでもいいことである。

しかしDX化によって 功利的な経済優先の社会が実現した後 、人類が求めるのはやはりこの不思議領域ではないか ?

DX化によって、私の大好きな本屋、ビデオレンタル屋、CDレコードショップも消えていったが、個性豊かな店員によるポップ広告は大事な不思議領域だったはず。

だから功利的でないことを書く。つまり、抽象的で無駄な哲学を書くべきなのだ。

余力がある状態で強制的に暇になることが本来の書き手の条件である 。疲れたら書けない。功利的に考えても書けない。締切日付きの商業契約の中でも書けない。

これはある意味申し訳ないほどに贅沢なことである。

暇人にしかできない贅沢。

それが書き手である 。

しかし、必ず敗北して死ぬしかない人間にとって、人生や存在を問うのはささやかな抵抗である。
なんで生きてるんだ、そしてなんで死ぬんだ。
謎だらけの人生に少しでも説明が欲しい。

あるいはこうも考えられる。

責任というのは絶対を前提にしなければならない 。しかし この世に絶対はないと感じている。
つまり私が責任を持って行動するということは、
嘘をついているような感じになる。
絶対はないと思っているのに堂々と責任を取るということを言えない。
この世は考えの及ばない不思議な闇が広がっているだけである。
そう認識することが科学の前提であり 真実への態度であるべきだと私は思っている。

畏怖の念

だから私は何もしない木偶の棒であり 、全てに躊躇する暇人となってしまった。
そうしないと後ろめたい気持ちに苛まれるのだ。
そのうち尻から根が生えて植物化しそうだ。
何もしないようで、実はしたたかな植物のような存在。ある意味人生を諦めているが、戦略は持っている。

村上春樹が支持されるのはこういう空気感かもしれない。論理ではない。あくまでも空気感。

つまり書き手というのは高等遊民のようなものだ。
功利的な活動も社会的な活動も私には 、嘘に支えられた虚構に見える。ただ慌ただしく動いているだけにしか見えない。私の根底にはそういう視点がある。申し訳ないほどのふざけた高等遊民である。

そしてこうも考えられる。

抽象的な哲学とは存在を直接問うものなので 、自分で作るものであり、教科書には載っていない。
教科書に載っているのは存在論以外の功利的で社会的なことである 。
書き手は教科書のように本を読まない。
そのように読む書き手はつまらない 。
書き手は適当に読んで、寝て、考えるだけだ。
それが本質 であり、 究極の一次情報である。

昔読んだ本の中でこんな記述があった。

(最近は本や作家の名前が思い出せない。もともと読人知らずこそが本筋だと思っているのでなおさら思い出せない。私の名前もslow warkerというどうでもいい名前だ。申し訳なく思っているので本の整理をする時にいつか紹介したい。)

もとい。

昔読んだ本の中でこんな記述があった。

大昔、生きるだけでもギリギリの貧しい村があった。そんな村でも抽象的で哲学的な教祖の霊言が求められていた。しかし教祖が霊言を発しなくなるとどうなるかというと、村人に口減らしのために殺されたのだそうだ。求められてはいるが、役に立たなければひたすら無駄な害悪であるということだ。
教祖は100%霊言に集中してリスクを負っていると言えるだろう。存在を賭けてただ霊言を吐き出すという意味では教祖は書き手の上位互換である。

霊言を発しない書き手は、社会的に必要とされなくなる。私の場合は殺されたくないので、自分で食い扶持はなんとかするが、それが私の書き手としての限界である。
私にとっての書きてというイメージは、
そういうものなのだ。

ちなみに書き手を作家と言い換えても良かったが、プロでもない自分にはとても恥ずかしくて書き手と言うのがやっとなのでそうさせて下さい。

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