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私的解釈ブレード・ランナー

 映画の解釈は人それぞれで、公式にこうであるというルールもないので社会に迷惑をかけない限りは自由である。全員がプロの評論家でもないし、大抵は自分の人生経験に絡めて独自の解釈をしている。映画だけでなく書籍の解釈も自由と言える。自由であるどころか、誤読も多い。誤読のまま新しい意味を見つけたり、生きるのに必要な哲学を強化できたりするので誤読も悪くない。映画であれ、書籍であれ、たいてい良い作品というものは物事を深く掘り下げ、紋切り型の解釈を避け、解釈の幅を持たせている。海外の翻訳された哲学書なんていろんな意味で誤読の宝庫である。これは悪い意味で。

そもそも

①書いている本人がわかっていないときがある。

最初はわかっていても、語っている間に言葉の迷宮に堕ちてしまうことがある。

②翻訳する人が理解できていないことがある。

文化的背景や世代間ギャップや語学能力で十分考えられる。

③日本語に変換すること自体ずれることがある。

日本語化不可能な場合、当て字か強引な解釈になってしまう。

④日本人の読み手の能力が足りていない。

これも翻訳者と同じ。さらに知的な読解力やその時の体調や感情など。

上記された歪みを乗り越えて、人間であるという共通点のみを手がかりに解釈しないといけない。しかし、4枚の歪んだレンズを通してまともに現実を見るのは難しい。むしろ、読解できたという人こそが最も怪しい。そういう人たちの会話はカルト宗教の教義のように狭く内向的だ。

映画も同じである。

以下の感想は「私が見たブレードランナー」というレンズを通した世界観である。奇妙で不思議な世界観は上映以来ずっと私の世界になっている。


「私的解釈ブレードランナー」

ハリソン・フォードは主役のつもりでいる。

物語の中の デッカードは人間のつもりでいる。 

ハリソン・フォードは監督によって コントロールされている。 

デッカードは警察の人間によって コントロールされている。 

デッカードはレプリカントであるにもかかわらず人間だと思い込まされてブレードランナーの仕事をしている。つまりは同族殺し。 

ハリソンフォードは主役だと思い込まされて脇役の仕事をしている。まさか将来を期待された勢いのある実力俳優を脇役扱いはしないだろうという空気はあったはず。

 デッカードは物語の中でこの状況に疑問を抱き 精神は不安定である。 時折やってくる真実を伝えるようなフラッシュバックが気になる。

ハリソンフォードも撮影時この状況に疑問を抱きこの 安っぽい ハードボイルドの演出 はおかしくないかと疑問を持って監督に詰め寄った。 

監督はサイコパスなのか ?映画のために人であることをやめている。善良そうで真面目なハリソン・フォードを騙すなんて。それが出来るからこそ監督なのかもしれない。映画が成立するならなんだってやる。

 しかし 皮肉にもあるいは監督の意図によってハリソンフォードの不安な状況下での演技はデッカードの心理を反映させている。

結果としてハリソン・フォードの演技は完全なものになっている。安っぽいハードボイルドのレプリカントハンターの物語をなぞり、疑問を持ちながら職務を遂行している様は最高の演技だ。

しかし、最後にデッカードが自分をレプリカントだと理解するようなシーンがある。
あのシーンは蛇足だと思う。
ハリソン・フォードにもネタバレしたかのような。
そのシーンの彼の演技も残念な感じがする。
本来の彼の演技に戻ったかのようだ。
最後のハッピーエンドを無理やり付けた逃避行も無意味だったが、リドリー・スコットがしれっとこのシーンを作っているのを想像して笑ってしまった。
監視役の刑事が示唆する、ユニコーンの折り紙を見てもデッカードは無表情に眺め、レイチェルを見た途端にプログラムが発動し逃避行動が自動的に始まるほうが良かった。リドリー・スコットが世間と妥協して映画を生き残らせたが、そのために魂を失ったシーンでもある。

監督に大義があるならば 、デッカードを操る警察の人間にも大義があるのだろう。壮大な計画を前にして個人はシステム維持の捨て駒である。同時に個人はシステムの恩恵を受ける。これこそが究極のシステム社会の成れの果て。この映画にもそれがある。

しかし 我々はこのメタ構造を見せつけられることによって存在が揺さぶられる。

 存在不安とは まさに フィリップKディックのテーマである。 この意味で監督は原作をうまく活かしている。ああ、神の采配である。

しかし、実際はフィリップKディックとリドリー・スコットの間ですれ違いばかりである。映画のプレ上映でレプリカントのドイツ兵らしいイメージをディックは気にいったらしい。しかし最初の印象は良くなかった。ディックはその後亡くなり、実際の上映作品はまた違ったものになった。全て実際に聞いたわけでない。解説本に書かれていたことである。最初に言ったとおり、誤訳、誤読、誤伝達の世界である。原作者と監督の間にも多くのすれ違いがある。私の中では監督は最終的にはうまく収めたと感じている。存在不安をテーマに浮かび上がらせたのだから。伝説となったブレードランナーを見れば、ディックもあの世で満足かも知れない。

監督は優秀であるだけではなく 創作のために 悪魔に魂を売っているのではないかとさえ思える。 良い悪いの次元ではなく社会人としての人間を超えた領域で映画を作り出そうとしている。 騙しているのは ハリソンフォードだけではない。ブレードランナーを 興業的に成立させるふりをするために 形式上 SF 作品にロマンスとハッピーエンドを入れている。 この企みは ハリソンフォード やデッカードと同じように興業主やスクリーンメーカーや 観客にも聞こえのいい物語 をその場しのぎで刷り込むためである。 このロマンスやハッピーエンドを思わせるシーンは見事に手を抜いているように思えるし、魂が伝わってこない。 だから 映画としては観客もついていけなくなる。 ブレードランナーは実際に 興業的には失敗しているのはこのためだろう。しかし、不死鳥のように再び蘇って伝説になるのもこの映画の宿命を感じさせる。

 映画は誰のものなのか。 リドリースコットにとって興行主もスクリーンメーカーも観客も関係ない。 

 監督は映画のヒット やお金を求めているのではない。興行的な成功など映画の完成の前では無意味である。 そういう意味では映画を所有しようとしていない。 ひたすら映画という神の器を作っている。ひたすら 監督はブレードランナーのディテールを細かく固めている。ピラミッドを作る 石工のように。 
マーケティング?そんなものクソ喰らえだ。

そうなのだ 誰のものでもない という状況を リドリーは作り出している。 ピラミッド建築に参加することこそ価値のあるものだというように 。映画 も同じく 参加こそ価値のあるものだとして考えている。 これは祭りなのだ。 その結果 ハリソンフォード、デッカード 、スクリーンメーカー、興行主、観客のすべてが信じたい物語 を食わされている状況が出現したのだ 。しかし監督の考えは違う。神の器を作ること一点である。聖なるものを降臨させるための器。
ハメルーンの笛吹のごとく、監督は全てを騙してその器に集約させる。

これこそステージである。そのステージに登場するのが ルトガー・ハウアーである。ルトガー・ハウアーは知っていた。 そして彼の演じるロイ・バッティも知っていた。全てを知っていた ルトガー・ハウアーは監督の企みを知っていたし 、ロイ・バッティはレプリカントクリエイターの企みを知っていた。もちろん監督の采配によって。

ロイが最後にデッカードを殺さなかったのはなぜか。 多くの仲間が殺されたのに。

デッカードは裸で逃げるレプリカント女性のゾーラを背後から 銃で撃ち殺した。愛らしい慰安婦 であった ブリスも銃で撃ち殺された。大男のリオン・コワルスキーの時は自分では殺しきれず レイチェルに助けてもらって殺した。格好の良いイメージのブレードランナーは何とも 間抜けで卑しい存在である。ガンマンの世界では最も忌み嫌われる所業の数々。偽のストーリーを掴まされて汚れた仕事をさせられる哀れな存在。 まるでブラック企業のサラリーマンのようでもある。 ロイにとってデッカードは裁くべきレベルにいない。哀れな羊。 ロイはそう見ていたのだろう。 もしかして レイチェルとの愛の物語 をプログラムされていたデッカードを殺す気になれなかったのかもしれない 。神の視点から見れば、新しい生き物が運命を受け入れ、つがいとなってこれから未来を生きようとするのを無碍に殺そうという気は起きなかったのではないか 。原作のタイトルは「電気羊は夢を見るか」となっています。これは監視役の刑事の疑問でもあります。

そのアンサーとして

ロイ・バッティは全てを見たのだ. そしてレプリカントメイカーの作った世界を打ち破ったのだ 。

ロイが死ぬ時、ルドワー・ハウアーは自ら詩を作り上げる。

これは何を意味するのだろうか。 安っぽい物語を生きている我々では到底 わからない世界をロイを通してルドガー・ハウアーは見ていたのだ。 それが 器 なのだ。 ハウアーはその場所にいた。 そして映画や物語 を超えて生きている本人がそのシーンで詩を降臨させた。

 ルトガー・ハウアーは生涯最高の役をやったのだと思う。 この器を作った リドリー も偉大だ。 おそらく彼らは信じていた何かを降臨させたのだ。


それには名前が無い。


 隠喩としての詩があるだけだ。


「おまえたち人間には信じられないようなものを私は見てきた。オリオン座の近くで燃える宇宙戦艦。タンホイザー・ゲートの近くで暗闇に瞬くCビーム。そんな思い出も時間と共にやがて消える。雨の中の涙のように。死ぬ時が来た。」
※ロイバッティの死に際のセリフ映画「ブレードランナー」より




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