三冊目 『パイドロス』プラトン 感想
ソクラテスは生涯、本を書かなかった哲学者で有名だが、プラトンの対話篇『パイドロス』ではソクラテスは書かれた言葉について次のように批判している。書かれた言葉は「実際に何ごとか考えているかのように思える」しかしその言葉は「イデアの影」でしかなく、「なにか問いかけても一つことしか返事をしない」。
我々は使用している言葉は必ず対象を必要としている。無にむかっては言葉を使用することができない。しかし、その対象を志向する言葉が「影」でしかないとすれば、どうだろうか。言葉は対象に近づこうとするが、到達することはできず、「影」、つまりぼんやりとした輪郭を描くことしかできない。ぼくたちは言葉を積み重ねれば積み重ねるほど、むしろ離れてしまうという感覚をもってしまうことがあるが、それは対象ではなく「影」でしか言葉を紡ぐことしかできないからではないだろうか。言葉を紡ぐということは常になにかから撤退を強いられるような行為ではないだろうか。
ソクラテスは書かれた言葉を批判し、語られた言葉を評価している。語られた言葉には「生命を持ち、魂を持つ」という。他方で書かれた言葉は、そのテクストが保存されうる限り、半永久的に不特定多数の他者に伝達される。ソクラテスはそれを「言葉というものは、ひとたび書きものにされると、どんな言葉でもそれを理解する人々のところであろうと、ぜんぜん不適当な人のところであろうとおかまいなしに転々とめぐり歩く」と批判する。そして、書かれた言葉は「記憶の訓練がなおざりとなる」という。語られた言葉は―ソクラテスの時代に於いて―記憶に保存され、書かれた言葉はテクストに保存される。記憶とは不安定かつ、あいまいなものである。それは全てを保存することができない上、記憶が改ざんされている可能性もあり、それは自分自身では判断がつかない。しかし、その不安定な中で「なにか」が残っといるとしたら、その「なにか」に魂が宿るのではないだろうか。
映像や音声が保存される時代において、語られた言葉ですら保存され、不特定多数の他者へ伝達される可能性がある。そのため、ソクラテスの言う「書かれた言葉」と「語られた言葉」を文字通りの意味ではなく、別の言葉で捉え直してみる。「書かれた言葉」=「影」は「情報」として、「語られた言葉」は「生きている言葉」として読み替えてもよいと思う。
言葉に生命が宿るとしたら、安定したものではなく、不安定な中にある「なにか」でしかない。不安定なもののなかに言葉を置くにはどうすればよいか考えていきたい。
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