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夏目漱石『夢十夜』第三夜 読書会 主催者の感想

第三夜はおぶっていた偉そうで盲目な自分の子供が、実は100年前に自分が殺した人で、最後石のように重くなるというホラーちっくなお話でした。
読書会では盲目であるはずの子供が、明晰に周りの状況を把握し、未来を言い当てるところに注目しました。ぼくはこのことついて、文学を読むときのスタンスと絡めて考えました。ぼくは文学について他の学問とは違い、知識がある状態(周りが見えている)よりも知識がない状態(盲目の子供)のほうが優位性がある場合もあるものだと考えています。例えば『夢十夜』を読む際にも、作者の夏目漱石ほかの作品を読んだり、漱石論の類いを読むことで読みが深まることがあります。しかし、そういった知識があることで、読むときの障害となる場合があります。夏目漱石という固定観念が生まれてしまい、読んだ時の印象がそれの通りになってしまう。それは、テクストという超広大な大地を固定観念という乗り物を使って移動するようなことだと言えます。
ぼくは文学を読む際はいかに盲目の子供の状態からスタートし、自分の思考力だけを使ってどう読むかが重要だと考えています。乗り物に乗らずゆっくり着実に自分の足でどこまで遠くまで行けるか。それは「ゆっくり本を読む」というこの会の方針にも通じていることです。
文学を読むとは知識を蓄えていくことではない。知識や本を読んだの量、読む速さは言うなれば全てのわかりやすく、目に見える基準だと言えます。それよりもこの会ではゆっくり読むことで、正解のない文学についてどこまで深く考えたか、を大事にしたいと思っています。それは基準などなく、目に見えないものだと言えます。しかし、世界にある全ての事柄は本当は答えなどなく、目に見えていないものの方が圧倒的に多いです。文学を読むとは、普段隠蔽されている世界を自分の思考力だけでいかに生で感じることができるのか、ある種の挑戦だと言えるでしょう。

また、読書会では犯してしまった罪(原罪)についての話になりました。第三夜では、100年前に殺した盲目の人が、今おぶっている子供であり、ずっしり重くのしかかっています。それに関して、日本において近代化を推進するために近代以前を殺す必要があり、その殺したものがずっと重くのしかかっているという話が出ました。人類の歴史や人の人生を前に進めるために過去を切り捨てる必要があります。なので、この犯してしまった罪は、すべての人、物、事柄が抱えている問題であると思いました。すべての人は殺してしまった子供をおぶっていますが、それを忘れたり、忘れたふりをしたりしてみんな生きています。それは、自分の罪を抑圧しないと日常生活で生きていけないからです。
文学作品は人が忘れたふりをしていた原罪を掘り起こしてくれます。ぼくも忘れていた、とてつもなく人を傷つけてしまった過去を思い出しました。自分のやってしまった罪とどう向き合うのか。背中の子供はいなくなることはありませんが、どう付き合っていくか考えていきたいとお思います。

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