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手の届かないお菓子と漂流する足元(20200503)

朝から晩まで六花亭のオンラインストアと格闘した一日だった。在宅支援として六花亭が通販おやつ屋さん(税込3,000円+送料無料)なるものの販売を今日から始めたのだが、いつ、どこで、何度アクセスしても繋がらない。みんな考えることは同じなのだと、みんな六花亭が大好きなんだと、ライバルが多すぎると苛立ちも何もなくただ笑ってしまう。ちなみにさっきようやく商品ページまで繋がり、カートに入れられた! と思ったら次の画面で「この商品は今は受付できません」と言われた。どうやら今日の分は終わってしまったらしい。これから24日までの販売期間に私が果たしてこのセットを買えるのか、今日この時点で雲行きが怪しい。私のことだから、数日頑張ってみてダメだったら諦めるかもしれない。そりゃあ六花亭のお菓子が家にあってくれたら嬉しいけれど、こんなインターネット競争を勝ち抜いてまで家に置きたいかと言われると、なんだか自分が滑稽に思えてくる。


昨日、2時半頃まで起きていたけれど今日起きたのは変わらず9時半だった。9時半でも遅い。数日前までは米津玄師の「Lemon」で8時には起きようとしていたのにそんなこともう忘れている。仕事のある平日はいつも5時半に起きていて、それが特に苦ではないのが不思議だ。けれどこの連休で9時半起床を体が覚えてしまったらテレワークだろうと社会復帰が難しくなりそうだ。それでも寝たいものは寝たいし眠いものは眠い。



松浦理英子『犬身』の続きに昼前から取り掛かり、色々挟みながらも16時ごろに読み終えた。犬に変身した主人公の行動に重きを置かれた小説かと思っていたら、犬を取り巻く人間たちの方が事情が込み入っていて、こんなところに犬として飛び込んでしまった主人公、大変だな…と思わず同情してしまいそうになった。同情。これは実に新鮮な感情、特に松浦理英子作品においては。と言うのも、私は基本的に松浦理英子の描く主人公の気持ちがさっぱりわからないし共感するのも困難だからだ。特に『ナチュラル・ウーマン』の容子には色々を通り越して軽い恐怖もある。(この容子への共感のし辛さ、その切なさについては改めて一つの文章にしてみたい気持ちもあるものの、理解が難しいものを文章にするのは二重に難しいことだろうと二の足を踏み続けておそらく1年ほど経っている)



twitterで台湾旅行記マンガを読んだので、今日のお昼ご飯は台湾料理のお弁当にした。どれがどんな名前なのか知らずに食べてしまったけれど、香辛料が入りすぎてエキセントリックな味になっていることもなく、美味しくいただいた。
台湾と言えば、小さな頃近所に住んでいた幼馴染の台湾人のママのことをいつも思い出す。あの家族は長女、次女、長男の三姉弟で、私は次女と同い年でいつも一緒にいたけれど、台湾に残っていたお姉ちゃんが私のことをとても可愛がってくれたことを覚えている。兄も姉も持たない私は、あのお姉ちゃんが私を気にかけてくれていたことがとても嬉しかった。そもそもどうして私のことを気に入ったのか、それは今でもわからないままだし、あの家族が、幼馴染の彼女が、それぞれ今どこにいて、どうしているのかを全く知らない。あんなに近くにいて、ずっと一緒にいたのに、今、何一つ知らない。駅前に小さなお店を開いて、杏仁ミルクティーを出してくれたママのことも、長女と次女でそれぞれアクセントが違う「ちいちゃん」という呼び声も、引っ込み思案だったけれど私と二人で本を読んで、けらけらと笑ってくれた弟のことも。



昨日、数時間で掌編を一つ書き上げたので、今日は少しは落ち着いて過ごせるかなと思ったものの、やっぱりどこか足元が漂流している。部屋に閉じこもって誰とも話さず、たまにSNSを見ながら本を読んで映画を観たりしていると、自然と内省の中に入り込んでしまう。私はこれからどうしよう、何をして、何と共に、どこに行くのだろう。そして唐突に2020年しいたけ占い上半期では5月が双子座のラッキーマンスだったじゃないかと思い出したりなんかして、ますます、じゃあどうしよう、と思考が漂流していくのだった。昨日書き上げた掌編の全体像を掴みにいくのもそうだし、昔は1ミリも興味がなかったエッセイへの応募にも心が向かい、何をしていても上の空になる。心だけが月にあるようだ。だから頭の混乱を忘れるために午睡に向かい、起きたら雑念を振り払うようにして映画を観る。



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『顔たち、ところどころ』はとても良い映画だった。今、引きこもった生活を送っているからこそ余計に、芸術を通した人とのコミュニケーション、誰かと会話すること、目的を持って旅に出ることがどれだけ貴いことだったかを思い知る。目の前にいる人の人生を讃え、目や脚、体のパーツの美しさを仔細に発見し、彼ら彼女らの仕事や生活にまつわる場所に忘れ得ぬ作品を残していく営みは、芸術と人との接続について改めて考えさせられた。アート・マネジメントを学んだ学生時代のわずかな記憶が体の中をふと動き回ったような気がした。もっとも、アート・マネジメントやフィールドワークを重視する先生と、文献研究を重視する先生の両方に師事し、結局私は作品・文献研究の方向に舵を切った学生だったけれど。

それでも芸術は一人で取り組むもの、とどこかで思い込んでいる、そう思いたがっている自分がいて、この映画のように、コミュニケーションを通じて作品を作り上げ、人と人とを繋げていく光景を見てしまうと心が揺れる。芸術とは何だろう、私は芸術の、何が欲しいのだろう。

芸術が人へもたらす作用のことを、ずっと考えている。

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