見出し画像

2019『カリギュラ』について 1/2

20191207 CALIGULA

2019年12月7日、神戸こくさいホールにて舞台『カリギュラ』を観に行った。



私はライトに菅田将暉が好きである。興味がある映画に彼が出ていると結構嬉しい。テンションが上がるとまくし立てるように喋り暴れる演技が大好きだ。音楽も聴く、彼のまっすぐ突き抜けていくのにそれでいて柔らかみもある声はとても心地がいい。笑っているときの彼の顔が大好きだ。そして横顔といったら彫刻か? と思うくらいに美しい。

画像3

しかしなにぶんライトなファンなので、今年の全国ツアー『LOVE』の抽選はことごとく落ちた。意外に、猛烈に悔しかった。


すると次はこの舞台『カリギュラ』に出演するという。カミュの戯曲だと! 私はライトにカミュも好きである。私は雪に塗れまくった雪辱を晴らすべく、晴れてトップコートの有料会員となり最速抽選に応募する運びとなった。
そして手に入れたのがこの12月7日、ソワレのチケットだった。

画像4



12月7日、部屋に帰り着いた私が化粧も落とさずにパソコンにかじりつき、茹で上がった頭で書いたのがこの殴り書きである。

これについてはtwitterでたくさんの菅田将暉ファンの方々にお読みいただいたようで、なんだかありがとうございました。恐縮です。



さて、ここからが私が本当にやりたかったことなのだが、今回の『カリギュラ』について、演出の特異点やカミュの思想自体をもとに、この舞台をちょっと真面目に考えてみようと思う。

考察を進める上で演出のネタバレがあったり多少のアクロバット解釈が入り込んだりするので、ご自分の解釈を大事にされたい方は読まなくていいと思うし、そもそも演出を言葉にして解釈するということ自体が野暮と言われたら全くその通りだと思う。わたしが観たものがすべてだ! という方にもこの考察は必要ない。
これは私自身が12月7日の『カリギュラ』の記憶を強化するためだけに行うことである。


また、この先に進んでくださる方々におかれましても「これは解釈のひとつに過ぎない」ことを強くことわっておきたい。演劇も映画も文学も詩も、それらに触れた人の数だけ解釈がある。私が書いたことだけが真理だとは絶対に思ってほしくない。これが唯一のお願いである。

なお、予想はしていたが大変に長くなったので前後編に分けることにする。最後まで読んでくださった方がいたらあなたはそれだけで偉すぎる。




画像5

1 2019『カリギュラ』を振り返る

 『カリギュラ』はフランス作家アルベール・カミュ(以下「カミュ」と書く)が二十代で書き、小説『異邦人』、エッセイ『シーシュポスの神話』と並んで「不条理三部作」と呼ばれる戯曲である。

 ローマ帝国の若く聡明な王カリギュラは、最愛の妹ドリュジラの死をきっかけに豹変し、「不可能を可能にする」という名目のもと、絶対に手に入ることのない月を求めるようになる。そして自らのローマ帝国を混乱と破滅に陥れる暴虐の限りを尽くし、最後には反逆者たちの手によって殺される。

 これが戯曲『カリギュラ』のあらすじだ。一人の王が狂い、死ぬまでの物語である。


 今回の『カリギュラ』(以降、2019『カリギュラ』と書く)ならびにカリギュラという人物について考えていく前に、まずは2019『カリギュラ』演出の特異点を振り返ることから始めようと思う。


 2019『カリギュラ』の演出において、私がここで語りたいのは主に「鏡の位置」である。


画像4



 戯曲『カリギュラ』を読むと、鏡について明確な置き場所は指定されてはいないものの、「鏡の前に立つ」等のト書きがあることから、鏡は「立てかけられている」あるいは「壁に掛けられている」ものだと思われる。
 しかし2019『カリギュラ』においては鏡は床にはめ込まれている。人物たちは鏡を見るときは皆しゃがみこみ、床に手をつけて地面を覗き込むような体勢になる。この鏡の位置について、演出家栗山氏は「大地と語り合うようなイメージ」と述べる。続けて、カリギュラが暴虐な言葉を叫ぶのと、反対に胎児のようになる瞬間が鏡の上で行われることの面白さを語る。


 演出家がそう語るのだからなるほどそうかとも思うのだが、私は「人物たちが床に手をつけて地面を覗き込むような体勢になる」という視覚的な構図に、ギリシア神話に登場するナルキッソスの姿が重なった。

画像2

 美少年ナルキッソスは他人を愛せず、自分に恋する他者を次々とフったために神から「自分だけを愛するようになる」という呪いをかけられる。そしてある日、水を飲もうと泉を覗き込むと、そこに写り込んでいた自分の姿に一目で恋に落ちてしまい、そこから離れられなくなって死ぬ。



 カリギュラという人物について、カミュは次のように述べる。

 彼の誤謬は人間を否定したことである。人は自分自身を破壊することなしに全てを否定することはできない。 _1
 自分自身に忠実なあまり、人間に対し不忠実だったカリギュラは、いかなる人間も自分ひとりでは救われないし、他人に抗して自由ではありえないことを理解したがゆえに死ぬことに同意する。 _2

 鏡を覗き込んで自分の姿を見るカリギュラに、自分以外は見えていない。彼はひたすら鏡に写る自分に向かって一方的に語る。鏡の中の彼が何か言い返してくることは一度もない。時には怒り、時には涙を流して鏡に語りかけるカリギュラは、まるで鏡の中の自分から何らかの返事を待っているようにも見える。決して聞こえないと自分でもわかっている返事を。そして返事が返ってこないからこそ、彼はそこから動けない。彼の思考はここで行き詰まる。彼の「限界」は、まず最初にこの鏡の上で提示されているのだと考えてもよいのではないだろうか。
 鏡の上で動けないカリギュラは、私には呪いをかけられたナルキッソスの姿に重なる。


 もう一つ、鏡にまつわる事象で印象的だったのが、彼の最期の瞬間もまた鏡の上だったということだ。

 セゾニア を絞め殺し、エリコンの死を目の当たりにしたカリギュラは「歴史のなかに入るんだ、カリギュラ、歴史のなかに」と叫び、反逆者たちの訪れを黙って受け入れる。彼は抵抗することなく兵に両側から斬りつけられ、倒れる。深手を負った体で這いつくばり、最期に彼は鏡と対面する。鏡に写る自分の顔を認識する。

「おれはまだ生きている」

 そう呟いて、彼はゆっくり目を閉じる。鏡から反射する光が彼の、寝顔のように安らかな顔を照らし、舞台は終幕を迎える。



2 カミュのカリギュラ

この世界はそれ自体としては人間の理性を超えている、ーーこの世界について言えるのはこれだけだ。だが、不条理という言葉のあてはまるのは、この世界は理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死物狂いの願望が激しく鳴りひびいていて、この両者がともに相対峙したままである状態についてなのだ。不条理は人間と世界と、この両者に属する。いまのところ、この両者を結ぶ唯一の絆、不条理とはそれである。ちょうど、ただ憎悪だけが人間同士をはなれがたい関係におきうるように、不条理が世界と人間とをたがいに密着させている。 _3


 「不条理」という概念について、カミュはエッセイ『シーシュポスの神話』のほとんどを言葉を尽くして説明している。不条理はカミュにとって看過することのできない大きな命題であり、「不条理三部作」以降の作品にもその概念は生きている。

 不条理とは上記でカミュが語るように、世界と人間、そして衝動と理性とを対峙させるものであり、またその状態のことを指す。対立する二つの要素があって、そのいずれかが「不条理なもの」というわけではない。不条理とは現在進行形で続く今このときの「状態」「状況」であるからだ。



 では『カリギュラ』において、カミュがカリギュラに何を言わせたのかを少し確認してみよう。

この世界は、そのままでは、たえられない代物だ。だからおれには月が要る、あるいは幸福、あるいは不死、常軌を逸しているかもしれないが、この世のものではない、なにかが必要なんだ。 _4
まさにそれだ! あり得ないこと、問題はそれだ。あるいはむしろ、あり得ないものを可能にすること。 _5
おれは空と海を混ぜ合わせたい、美と醜さをとけあわせ、苦しみから笑いをほとばしらせたい。 _6
この時代が、おれの手から平等という贈り物を受け取る。全ては均等になり、地上に不可能がおとずれ、月がおれのものになる、そのときたぶんおれ自身も姿を変え、おれと一緒に世界も姿を変える。人はもう死ぬことはなく、幸福になるだろう。 _7


 まずカリギュラは、前提としてこの世界は不完全なものであると断ずる。その上で彼はこの世界における何らかの要素の対立を気にしており、その対立状態こそを打破したいという意志がある。それを端的にまとめると「あり得ないものを可能にすること」になる。
 彼の興味関心は「対立する二者」にほとんど限られている。対立とはすなわち「不条理」のことである。彼が望んでいるのは「不条理の打破」これだけだ。


 しかし、カリギュラの興味が不条理に絞られており、不条理について熱く語れば語るほど、読者や観客にとっても「不条理」という概念がどのようなものであるのかが見えてくる。彼は不条理を憎みながら、同時に不条理とは何かを熱心にプレゼンして観客に理解させようとしているのだ。


 とすればカリギュラとはカミュの分身であり、代弁者であると考えることができる。カリギュラが語る言葉はカミュの思想であり、カミュの大きな命題なのだ。カリギュラはそれを話し言葉にアレンジされたものを自分の言葉として語っているに過ぎない。
 カリギュラはあくまで人の形をした「不条理」という概念なのである。


 彼が概念であることを明確に示し、彼のプレゼンの見事な結実は終幕、彼が最期に叫ぶ一言にある。ここではカミュによるト書きも入れて引用しよう。

最後のしゃっくりのなかで、カリギュラは笑い、あえぎつつ、わめく。

おれはまだ生きている! _8

 彼は「わめく」のである。自分を殺しにきた人間たちに対してかもしれない、誰に対してでもないのかもしれない。だが彼は少なくとも響き渡る声で「わめく」のだ。


 それは彼の一種の宣言と受け止めることはできないだろうか。つまり不条理の権化である自分が「まだ生きている」こと、それはすなわち生命の究極の限界点に立って為される「不条理は死によっては解決されない」というぎりぎりの宣言であると。


 『カリギュラ』について、カミュは「高次な自殺の物語」であると語っている。しかし自殺という行為についてはカミュはこうも述べている。

自殺は不条理への同意を前提とするという点で、まさに反抗とは正反対である。自殺とは、飛躍がそうであるように、ぎりぎりの限界点で受入れることだ。いっさいが消失されつくしたとき、人間はその本質的歴史へと帰る。自己の未来、唯一の怖ろしい未来をかれは見わけ、そのなかへと身を投じてゆくのだ。自殺はそれなりに不条理を解決してしまう。自殺は不条理を同じひとつの死のなかに引きずりこむ。だがぼくは知っている、不条理が維持されるからといって、不条理が解決されるということはありえないのだということを。 _9

 カリギュラの死は、カミュのこの主張を証明させている。カミュの思想は証明され、是に於て、勝利しているのである。カリギュラの死によって不条理はより高次な次元へと昇華され、理想的な完成形を見ることになるのだ。



 それに「歴史のなかに入る」ということもまた、カリギュラが大きな物語の一部となり彼個人としての時間は止まってしまうことを意味しているようにも思える。歴史は後になって振り返る人々によって物語性を帯び、虚構に近づく側面がある。その「歴史のなかに入るんだ」とカリギュラに言わせることは、カミュがこの戯曲の彼のことをそもそも虚構であると言っているようなものではないだろうか。 


 ちなみにこのカリギュラの最期について、当初カミュはカリギュラがふたたび幕を上げて現れ、次のように観客に語りかける場面を構想していた。

「いや、カリギュラは死んではいない。彼はここにも、あそこにもいる。カリギュラはきみたちひとりひとりのなかにいる。もしきみに権力が与えられ、もしきみに心があり、もしきみが人生を愛しているなら、きみは、彼、すなわちきみがきみ自身のなかに持ち運んでいるこの怪物あるいはこの天使が荒れ狂うのを、見ることになるだろう。」_10

 私は正直ここまでされるとダサいと思う。誰の心にもカリギュラが存在しているとカリギュラ自身がネタばらしをしてしまっては観客はそこで思考停止に陥り、想像力を奪われたまま帰路につくことになるだろう。死んでいるのにわざわざ生き返ってもらってご丁寧に説明していただかなくても、観客の想像力はどこまでも広がっていくだろう。
「おれはまだ生きている!」
 この一言にはそれだけのインパクトがあるのだ。



 以上のことから、カミュが想定していたカリギュラの最期と2019『カリギュラ』での彼の最期には印象として大きな乖離があることがわかる。その空隙に踏み込んでいく前に、もう少し話を進めよう。

(後編へ続く)

*** *** *** ***
1. 『悲劇喜劇』2019年11月号、早川書房、2019年、p54.
2.  Ibid, p54.
3. アルベール・カミュ著、清水徹訳『シーシュポスの神話』、新潮社、1969年、pp42-43.
4. アルベール・カミュ著、岩切正一郎訳『カリギュラ』、早川書房、2008年、p22.
5. ibid, p33
6. ibid, p38.
7. ibid, p38.
8. ibid, p150.
9. 『シーシュポスの神話』、pp96-97.
10. 『カリギュラ』、pp153-154.

この記事が参加している募集

舞台感想

読んでくださってありがとうございます。いただいたお気持ちは生きるための材料に充てて大事に使います。