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どこまでをわたしのものだと言ってもいいの(20191208_したため#7『擬娩』)

人間には生物学的にオスとメスの二種類があって、メスにはできてオスには何をどうしてもできない唯一の行為が「妊娠」と「出産」だ。けれど世界のいたるところ同時多発的に消えたり起こったりを繰り返して歴史を繋いできた人間のそのまた一部に、「擬娩」という行為を行うコミュニティ、部族、集団、がある。妻の出産に合わせ、夫が「出産」を擬態する。実際に床に伏せって仮想の陣痛に呻いてみたりして、妻の出産の苦しみを分かち合う、いや引き受けようとする。
そういう習俗が、世界をひっくり返してばらばら落ちてきた人間たちのそのまた一部に伝わっている、いた、という。


したため#7『擬娩』は舞台の上で妊娠から出産に至るまでのプロセスを、演劇的に演出して立ち上げてみた作品だった。
「子供を産んだことがない」と口を揃える舞台の4人に突如「妊娠」という現象が降ってくる。市販の妊娠検査薬が浮かび上がらせる「線」から始まり(これ以降もそうだが、4人それぞれに与えられた「フレーム」はとても働き者だった)怒涛の悪阻がやってきて、お腹は膨らんでいき、やがて出産の日を迎える。
もちろん誰のお腹も膨らんで見えることはない。

記憶に残ることひとつめ。
女性2人男性2人という俳優がいて、妊娠による自らの身体の具体的変化、そして妊娠によって自分自身の好みまでもが変わってしまったこと、を語るのは女性2人だったということ。
お腹が膨らんでくるにつれて自分自身の内臓の位置が強制的に変えられていくこと、これまでこの思考、嗜好は自分だけのものだったという確信が揺らいでいくこと、体に子供が入り込むことによって自分自身が作り変えられてしまうことへの強烈な違和感、恐怖を語ったのは女性2人だった。

記憶に残ることふたつめ。
胎児と母体、あるいは胎児と医師との直接的な会話。そこで胎児が何度となく尋ねてくる。
自分が出ていくその世界はいいものか?
母体や医師はすぐにはうまい言葉を返してやれない。いいこともあるし、まあ正直よくないところもあるよねそりゃあ。うん。まあ。
もうひとりの胎児はもっと率直だった。
「お腹の中、正直めちゃくちゃ快適なのでこのまま生まれずにずっとここにいてもいいですか?」

生まれてしまったら怖いことがたくさんある。何が起こるかわからない。異常気象、戦争、経済状況、世界に生まれてしまったら心配事が山ほどある。
それなら生まれないでずっとここにいたい。何者からも安全で守られたこの羊水の中で永遠に生きたい。母体の、あなたさえ良ければ。

このやり取り、というか、この概念、最近読んだ。
川上未映子の新刊『夏物語』だ。
人が人を産むことは全き正しいことなのか、自分の子供は生まれてきたいと望んでいるのか、そして自分自身もまた、生まれてきたくて生まれてきた存在であったか。
答えは簡単に見つけられるようで実はどこにも無いことに気づく。問われて初めて自分は正解を一つも持たないことを知る。
だから「正解」に頼ることなく自らの感情を、正直に、語るしかない。
会いたいのだと。

けれどその「会いたさ」も産んでしまえば個人の手を離れていく。
妊娠や出産は全き個人の中に起こる出来事、それがいつしか社会の問題にすり替わっていく。個人的な「会いたさ」は「産めよ殖やせよ」の合唱にかき消されていく。
妊娠は、自分を自分から引き剥がしてしまう。出産は、社会の手によって自分から引き剥がされてしまう。
全き個人的な出来事であるはずなのに、最初から個人の手に負えない土俵にそれはある。

妊娠から出産を擬態してみて私が見た光景は、この素晴らしき行為! という達成感でもなければ感動でもなく、異物としての胎児への恐怖、そして胎児から見れば、何が起こるかわからない世界に強制的に引きずり出されることへの恐怖、そしてその何もかもが個人の手から引き剥がされるという社会構造への恐怖、概して、恐怖だった。
恐怖であり怒りだった。
妊娠と出産を擬態しながら「反出生主義」を暗に示している作品だと思った。
それから、個人的な「会いたさ」ですら引き剥がされるということが、さみしかった。


ながらさんの作品は、2019年1月の『幽霊の背骨』以来の観劇になる。
私はながらさんの作品の作り方にとても、とても興味がある。
提出されたテクストを出発点に、文脈や行間を掘り起こして得た解釈をもとに作り上げる演劇もある、し、私が主に知っている「演劇」というのはそれだ。はじめに台本があった。そして話はそれから。
けれどながらさんの作品に、きっと確たるテクストは存在しない。
台本と呼ぶにはあまりに即興的で、再現性がとても低い、発話であり動作だと思う。
しかしながらこれもまた、「演劇」以外の何ものでもないものだとすとんと腑に落ちる。
私はながらさんの持つ過程を何一つ知らない。何一つ知らない過程を以って演劇を作り上げる人のことは、知らないからこそ強烈に惹かれる。強烈に、知りたいと思う。
いつかゆっくりお話ができたらな、と伝えてみたものの、そういう場をセットするねと言われたものの、話を聞いてるととてもお忙しい人でいらっしゃる方だから、夢は夢のままで終わるかもしれない。
惹かれるなら、自分で模索していきなということだ。

みたことがない景色があり、みたことがない演劇が探せば探すほど出てくる。
不思議だ、もうずっと前に演劇から離れた身であり演劇を忌避した時期もありながら、まだ演劇のことを目で追いかけている。


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